著者
大河内 浩人 松本 明生 桑原 正修 柴崎 全弘 高橋 美保
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.115-123, 2006-02

報酬は報酬が与えられた行動に対する内発的動機づけを低めるので,報酬を用いた教育は避けるべきである,という考えが,小,中学校の教師や,教職志望の学生の間で広まっているようである。しかしながら,これまでの研究は,内発的動機づけに及ぼす報酬の有害効果は,極めて限定された条件下でしか生じないことを明らかにしている。本稿ではその代表的研究を紹介した上で,いくつかの条件が満たされたとき,報酬は,その報酬が与えられた行動への内発的動機づけを低めるが,かなり特殊な状況でなければ,実際の教育場面でこれらの前提条件が満たされることはないと結論した。
著者
小川 好美 朝井 均
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.1-20, 2006-09
被引用文献数
1

性教育を施行する場合,どの時期に誰が実施するべきかなど,いつも議論の絶えないところであるが,最近は「行き過ぎた性教育」などがマスメディアに取り上げられ話題になるといった状況もある。ところで,ドイツの性教育に関する教材などを日本でも見かけることがあるが,文化的背景等の異なるところで作られたものであるということも注意しておかなければならない。本研究は,日独の性教育に関する比較検討を行うことにより,日本の性教育を客観視し,長所の再発見や応用の可能性を探ることなどを目的としたものである。日独の青少年の性交状況を比較すると性交率はドイツのほうが高かったが性交経験率の推移はどちらも上がりつつある傾向が見られた。性に関して日本では友人の影響が強いのに対し,ドイツでは親の存在感が強かった。家庭内において性教育若しくは身体発育や性に関する話をすることがあるとしても,その内容が異なるのではないかということが考えられた。ドイツではBundeszentrale fr gesundheitliche Aufklrung(連邦教育センター)から性教育に関する多種類のパンフレットなどが発行されており,具体的な性行動などについても書かれているが,愛情や様々な心情から取り扱い,身体に関する基本的な知識など多面的に盛り込まれ,また読みやすいように工夫されているものであった。一方,わが国ではそのような種類の刊行物は皆無に等しいといわざるを得ない。文化的背景,歴史,教育システム,学校と家庭の関係などが異なるので,日本とドイツの学校での性教育を単純に比較することは大変難しいが,その中で日本の性教育を考える上での参考になる点は,学校と家庭での性教育の関係,保護者と子どものコミュニケーションとその信頼関係であり,愛情や人とのつながりを考えさせ,正しい情報をわかりやすく伝えるための資料や手段などは重要であろうと考えられた。When we performs sex education, there is a difficult problem who should carry it out in which time in usually. This study was aimed at we regarded Japanese sex education as objectivity by doing comparison examination about sex education of Japan and Germany, and investigating rediscovery of a good point and potency of application. German one was high in the sex rate, but determination stopping both was seen in the transition of coitus experience coefficient when compared the young sex situation of Japan and Germany. When was troubled about sex, for the partner whom a youth talked with, influence of a parent was strong for a thing with in Germany and many friends in Japan. Even if we put it in home and could have a talk about sex education or sex, it was supposed whether you were not considerably different in the contents at Japan and Germany. Because it is different from cultural background, history, an education system, a school in domestic reference, it is not easy to compare the sex education between Japan and Germany. A point to be useful for at the top that thought about Japanese sex education was a school and communication of reference of sex education at home, a protector and a child and the relationship of mutual trust , and it was thought so that a document or medium it was easy to understand right information, and to tell were important.
著者
安福 純子
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.p377-386, 1994-02

本論は,卒業論文の準備にとりかかってから頻繁に「頭の中に割り込んでくる声」に困惑して相談室を訪れた男子学生の事例報告である。面接は8ヵ月にわたって24回持たれ,この間に68の夢の報告があった。この夢は面接を便宜上III期に分けると,第II期に溢れるように報告された。クライエントは第III期に再び卒業論文にとりかかり始め,母親が死ぬ夢を報告して後,面接は中断したが無事卒業していった。その後,卒業報告の手紙をもって終了とした。本症例を通して,青年の発達課題,夢が示唆したもの,中断の意味について考察した。This case study reports on the process of psychotherapy for a male student suffering from an inner voice disturbing his thinking.At the time,He was absorbed in preparing a graduation thestis.This process of treatment had three distinct stages,two of which are discussed in this paper.During the second stage,the client reported fifty seven dreams that suggested the relationship with his mother.In his dreams he modified his negative mother image to creat a posibive one.In the thirs stage,he tookd up work on his graduation thesis once again and began to see his real self.At this time,he was required to exercise the ability to cut off both inner and outer reality.After reporting a dream in which his moteher died,the client ceased coming to psychotherpy.Based on analyses of the series and content of the dreams,it was discussed that the devolopmental task of adolescents,the meaning of dreams,and the reason in this case for interrupting psychotherapy treatment.
著者
飯島 敏文
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.54, no.2, pp.173-185, 2006-02

本稿は,就学前の子どもの日常生活に存する事物あるいは事象の一切を教育的契機として位置づけ,それら教育的資源の有効な活用をはかるための指針と具体的方略及び課題を提起することを目的とするものである。それら教育的資源がいかなる教育的価値を孕んでいるか,さらに教育的価値を発現する上で妨げとなる懸念のある諸要素をいかに把握し,逆にそれらを価値ある諸要素に転換するための手だては存在するという見地から,可能な限り具体的に「日常経験の教育的価値」とその機能の仕方を記述してみたいと考える。筆者はこれまで20世紀初頭おけるドイツのHeimatkunde,昭和初期の郷土教育論及び実践,さらに戦後の地域学習の役割の再評価を通して,子どもの経験という視点から郷土すなわち日常生活空間が内包する教育的価値の解明にアプローチしてきたつもりである。本稿では支障ない範囲で「郷土」を「日常生活空間」と読み替えることで,子どもの日常生活における教育機会を抽出し,その意義と課題を考察してみるつもりである。さて,子どもの日常生活における教育的契機が多数見いだされ,その教育的機能の有効性が期待されるとしても,そしてさらにその有効性が疑いないものであるとしても,教育機会を提供し制御する主体が誰であるのか,またその人的・物質的支援は何人が責務を負うべきであるのかということは,教育の営みの中で常に問い直され続けなければならない課題であると思われる。筆者は学校教育における教科教育専攻に身を置いているが,教科教育の授業で実現可能である側面は一般に世間で認知される範囲を遙かに超えるものであるということを前提としてみても,授業を中心とする学校教育の中では実現が困難である側面があることを看過することはできない。そもそも教科教育を前提とした授業は成長のすべてをカバーしうるものではない。だとすれば,教科の授業を超える部分に対して,さらに就学前の子どもたちに対して我々はいかなるアプローチが可能であるのだろうか。学校教育を構想し運営する教育委員会や教師たちばかりではなく,国家・自治体さらには地域社会の市民がもっと意識的に教育を支援しなければならないのではあるまいか。国家が責務を負うのはすべての国民に平等な教育機会を提供することであり,学習指導要領に示されるような水準の学力・能力を身につけうる条件を確保することであり,そのことをもって我が国の国民・市民としての最低限の資質を身につけさせる機会を保証することである。子どもの個性のどこを伸長させ,どのような人間として育てるべきかということは学校や国家が決めるべきことではあるまい。それは第一義的には子ども個人の意志によるものでなければならないし,そして次には保護者の教育方針によるものでなければならない。子ども自身あるいは保護者の思い描く社会観・人間観が「公共の福祉」に反しない限りは,学校や国家にそれ以上の方針強要の余地もないし,その権利もないはずである。近年の学校教育現場で,学校側と保護者側の意思疎通の失敗から児童・生徒と担任教師の間に学級運営上の支障が生じていることを耳にすることが多くなっている。以前から言われているような,保護者の高学歴化にともなう教師の社会的地位の低下,学校と家庭の教育的機能分業の崩壊などさまざまな要因があるであろう。こうした問題は可視的に統計的に考察することが難しいばかりではなく,社会的な枠組みからの考察が個性的なひとりの子どもの教育という営みにおいて具体的な指針とならないという事情にも原因はあるだろう。保護者や地域社会と学校との協力関係の構築が今は急務なのである。そして,協力関係の構築のためにもっとも留意されるべきことは,子どもの「望ましい社会観・望ましい人間像」を共有することである。筆者は,家庭の側に無制限の教育方針の自由が許されているとも考えない。学校教育は子どもの学習能力の向上を担うのみでなく,それ以上に子どもの社会化という任務を負っているはずである。その学校の責務を阻害するのは保護者の利己的な主張に過ぎないことを改めて確認しておかなければなるまい。望ましい人間像は,理念的にはいくつもの命題で提示することが可能である。自主性のある子ども,創造的な子ども,個性的な子ども……等々である。これらの諸目標は極めて抽象的であるため,批判的解釈の余地が少なく,そのスローガン自体に異を唱えることは難しい。しかし,理念が正しくともそれが現実の子どもの指導方針を無条件に肯定するものではないこともまた明らかである。理念的な目標はしばしば具体的な場面において価値の対立や矛盾を露呈する。このことは「望ましい社会観・望ましい人間観」のレベルでの共通認識は,現実的な機能不全をもたらしかねないことを物語っている。抽象的な社会観・人間観は,「その実現プロセス」における共通認識の成立をもってはじめて「共有」「協力」が可能になるものであると考える。現在の教育の混乱,教育機関への不信は,社会的に通用するような「望ましい社会観」・「望ましい人間像」が共有できていないばかりでなく,それ以前に,共有の当事者であるところの保護者や教育者たちの中において「望ましさ」が具体的な像を結んでいないからであると思われる。「望ましさ」を明確にイメージ化できるかどうか,それを矛盾なく一個の人格の中に形成していけるかどうか,まさにこの点に子どもの将来,さらには我が国の将来の行く末を左右する要因が内在していると考える。
著者
高橋 一郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.135-149, 2004-09

本論文の目的は, 「少年犯罪が凶悪化している」という通念を批判的に検討することにある。とりわけ,犯罪の「質」の問題に焦点を当てることにより, この通念に対する反論をおこなう。現在, この通念は, 社会一般に広く信じられているものである。しかし, この通念が必ずしも少年犯罪の実態を反映したものでないことは, 多くの研究者が指摘している。例えば, 犯罪統計で見る限り, わが国の少年凶悪犯罪の数は, 1950〜60年代には現在よりもずっと多かったのであり, この時期に比べれば, 現在の数値はおおむね低い水準で推移している。しかし, このような統計データに基づく議論には,一定の限界がある。「少年犯罪が凶葺化している」という主張がなされる場合, 犯罪の量的な増加だけでなく, 犯罪の質的な変化についてもしばしば言及されているからだ。すなわち, 近年の少年凶悪犯罪は, その手口や動機において, かつての少年犯罪にはなかった「凶悪な」特徴が見いだせる,というものである。この主張に対して, 統計データに依拠する従来の犯罪研究は, 十分に反論しえない, と思われる。以上のような状況をふまえ, 本論文では, 1950〜60年代のわが国における代表的な少年犯罪の事例をとりあげ, その内容について検討をおこなう。そして, その検討により, かってはなかったとされる少年犯罪の特徴の多くが, 1950〜60年代においてすでに存在していたことを明らかにする。これにより, 「少年犯罪が凶悪化している」という通念が, 質的変化の観点からも妥当ではないことを示す。
著者
井坂 行男 井賀 誠子 増田 朋美 仲野 明紗子 松岡 梨恵 原田 利子 内藤 志津香
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要 4 教育科学 (ISSN:03893472)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.33-49, 2006-09

本論文は聴覚障害を有する幼児の教育相談支援事例についての報告である。人工内耳を装用した幼児と他の障害を併せ有する幼児に対して,言語獲得支援を行った。その結果,コミュニケーション手段(手話)の獲得によって,情緒の安定,こだわりの減少,コミュニケーション意欲の向上が認められた。This paper is a case study of educational consultation support of infants with a hearing impairment. We gave support to an infant with Coclear Implant and an infant with other impairment for the language acquisition. As a result, It was admitted that they stabilized emotion, decreased the sticking to interesting things and improved the communications will by the acquisition of the communications means (Sign Language).