著者
小田中 章浩
出版者
大阪市立大学
雑誌
人文研究 (ISSN:04913329)
巻号頁・発行日
vol.58, pp.196-211, 2007

サミュエル・ベケット(1906~1989)の戯曲が興味深いのは、それらが優れた作品であると見なされているだけでなく、上演を前提として書かれる「戯曲」と、文学的(あるいは芸術的)に完成された「作品」との間の埋めがたい溝に、「作者」がどの程度まで介入できるかという問題を提起しているからでもある。ここでは文学「作品」と「テクスト」の関係をめぐる、ポスト構造主義以降のさまざまな議論を検討する余裕はないが、少なくとも文学「作品」と、演劇における「作品」の違いとして言えることは、前者が物質的なレベルにおいて紙に書かれた(印刷された)インクの染み、あるいは電子的な記号の配列として存在するのに対して、後者は一定の時間の流れの中にしか存在せず、「作品」を同定することは本質的に不可能だと言うことである。その意味において、演劇における戯曲は、上演を実現するための他のさまざまな媒体(俳優の身体表現、舞台美術、演出プラン等)と同様に、まさにロラン・バルトのいう「テクスト」(さまざまな解釈に向かって開かれた表現)を構成すると言ってよい。ところがベケットは、そのいくつかの作品の上演において、自らの戯曲がこの種の「テクスト」として自由に解釈されることに強い抵抗を示した、その典型的な例が『勝負の終わり』である。ではわれわれはこの戯曲を、彼が構想した通りにしか解釈できないのであろうか。この小論では、ベケットが自らの作品において見落としていた要素に注目し、この「テクスト」の拡大解釈を試みてみたい。

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小田中章浩「ベケットの『勝負の終わり』におけるゲームの規則」『人文研究』58、2007年、大阪市立大学。https://t.co/m4C72s29n7

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