著者
倉島 哲
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.70, no.2, pp.206-225, 2005-09-30

何かの技法を身に付けようとしているうちに、それまで身に付けようとしていた当の技法についての認識を新たにする経験は一般的である。このような経験を捉えるための視角を提供することが本稿の目的である。最初に、この経験を捉えることの困難さを確認する。まず、技法の学習者と指導者の主観は、いずれもこの経験を捉えるための足場として不十分である。なぜなら、学習者も指導者も、学習者が習得すべき技法についての認識の変化を繰り返し経験してきたからである。また、この経験を客観的に捉えようにも、学習者が経験する認識の変化をすべて拾い上げることのできる客観的な指標は存在しない。次に、この変化を捉えるための手がかりを、マルセル・モースの「身体技法論」に求める。モースは、過去の泳法と現代のそれを比較するとき、これらの技法の相違を、生理的差異・心理的差異・社会的差異という三つの異質な差異として捉え直す。論理的には相互いかなる関係も有さない三つの差異としてこれらの技法の相違が捉え直されたということは、この捉え直しが経験的になされたことを意味する。そのかぎりで、モースの記述からは経験的記述の対象になるだけの固有のリアリティを帯びた技法が立ち現れる。モースのいう技法「有効性」とは、こうして陰画的に浮かび上がる技法の経験的リアリティとして解釈できる。学習者が指導者の技法の有効性を認識することによって触発される模倣を、モースは「威光模倣」と呼ぶ。その具体的な姿を検討するために、私が1999年より2005年まで(執筆時点で継続中)フィールドワークを行ってきた武術教室S流を考察する。技法の経験的リアリティを足場とした記述がなされることで、技法の有効性の認識は、モースが指摘したように威光模倣の開始時点で一度だけ行われるのではなく、その過程で繰り返し行われ、そのたびに有効性の内実が変化することが明らかにされる。

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