- 著者
-
佐藤 斉華
- 出版者
- 日本文化人類学会
- 雑誌
- 文化人類学 (ISSN:13490648)
- 巻号頁・発行日
- vol.73, no.3, pp.309-331, 2008-12-31
ニマ(仮名)は、「女は(嫁に)行く」ことが現在までなお揺るぎない規範性を保持しているネパール・ヨルモ社会に生きる、未婚の中年女性である。本稿は、社会的規範により抑圧され周縁化されている個人が、この規範との緊張を孕んだ関係のもとでいかなるエイジェンシーを発揮するのか、いかに自己を構築しその生存の場所を切り拓くのかという問いを、このニマが語るライフ・ストーリーを通して探究しようとするものである。興味深い事実は、婚姻を命じる規範がその一端を構成するところの、彼女にとって抑圧的な社会的編制のもとで生きることを余儀なくされながらも、彼女自身がこの婚姻規範を繰り返し肯定し、自らの「逸脱」性を率直に認めていることである。規範への全面恭順とそれが含意する自らの逸脱性の受容という、一見平板な身振りのもとで彼女が紡ぎだす語りを辿るにつれ浮かびあがってくるのは、しかし、規範への一面的な服従とは程遠いものであった。自己否定をあえて引き受けつつも自己の生存をしたたかに確保し、明示的には規範を肯定しながらもこの規範から逃れでていこうとする志向を滲ませる彼女の言葉は、体よい要約を拒み、不分明なその声は構造に折り込み済みのエイジェンシーを越えでる潜勢力を宿す。もちろん、そのような潜勢力がいかなる展開を遂げる(あるいは遂げない)かについて、軽々しく予断するのは不可能なことである。