- 著者
-
桑野 栄治
- 出版者
- 久留米大学
- 雑誌
- 久留米大学文学部紀要. 国際文化学科編 (ISSN:09188983)
- 巻号頁・発行日
- vol.19, pp.89-114, 2002-03
本稿は、「まれなる独裁者、世祖」と評される朝鮮一五世紀後半の世祖代を国家儀礼の側面から照射したものである。従来、世祖の王権についてはおもに圜丘壇祭祀の復活という側面から論じられてきたが、本稿では対明遥拝儀礼の実施状況とあわせて検討し、一五世紀ソウルの儀礼空間を通して世祖の王権を考察した。一四世紀末に朝鮮王朝を開創した太祖李成桂は、正朝と冬至に王都漢城の王宮から明皇帝の居城を遥拝することによって事大政策を標榜し、以後、この儀礼は第四代朝鮮国王の世宗代まで王朝国家の重要な国事行為として継続実施された。この対明遥拝儀礼を望闕礼といい、望闕礼を終了すると王宮内では異域(日本・女真・琉球)からの使節を取り込んだ朝賀礼と会礼宴が催された。ところが、世宗の死後、短命な文宗・端宗の時代をへて第七代朝鮮国王世祖が即位すると、正朝・冬至の国家儀礼のあり方に大きな変化が生じるようになる。世祖は、本来は中国の皇帝のみが行いうる祭天儀礼を王都漢城の南郊で実施し、その一方で明帝を遥拝する望闕礼を放棄した。世宗は晩年に望闕礼を王世子または百官に代行させていたが、世祖は王世子による代行さえ認めなかったのである。にもかかわらず、朝賀礼と会礼宴は王宮内で盛大に催され、とりわけ王権の強化につとめた即位のはじめには五〇〇名余りの「倭人」と「野人」を参席させるなど、世祖は「夷」をしたがえる皇帝を彷彿させる。一五世紀の儀礼空間を通してみた場合、世祖の治世年間は朝鮮時代史上、まれにみる時代であったといっても過言ではあるまい。