- 著者
-
木田 邦治
- 出版者
- 慶應義塾大学
- 雑誌
- 哲學 (ISSN:05632099)
- 巻号頁・発行日
- vol.90, pp.141-164, 1990
「権力が暴力を用いるとき,権力はもっともつよいのではなくもっとも弱いのである.権力がもっとも強いのは,それが力に代わる魅力,すなわち,除外よりは魅惑と参加,絶滅よりは教育などの手段を採用しているときなのである」."抑圧する権力"観に準拠するかぎり,教育関係に権力が作用するのは体罰のような逸脱的事態かカリキュラム化された政治教育が為される場合に限られると考えられ続け,教師の狡智が円滑に実現しているかぎり,鏡視と生徒の関係の権力性は隠蔽され続けるであろう.しかし教師の狡智とここで呼んでいる機制は,ルソーが『エミール』ですでに提示していたものなのである.「若き教育者よ,わたしは一つのむずかしい技術をあなたに教えよう.それは訓戒を与えずに指導すること,そして,なに一つしないですべてをなしとげることだ.……生徒がいつも自分の主人だと思っていながら,いつもあなたが主人であるようにするがいい.見かけはあくまで自由に見える隷属状態ほど完全な隷属状態はない.こうすれば意志そのものさえとりこにすることができる.……もちろん,かれは自分が望むことしかしないだろう.しかし,あなたがさせたいと思っていることしか望まないだろう.……あながは思いのままにかれを研究し,かれは教訓をうけているなどとは夢にも考えていないのに,あなたがあたえたいと思っている教訓をかれの身のまわりにすっかりおぜん立てすることができるだろう」.このように生徒を包囲し,自発的で自由意志に導かれている服従を引き出す狡智的な〈教師-生徒〉関係の機制を,イリイチは学校の内部だけでなく学校外の〈専門家-依頼者〉関係にも見出しており,学校における過程は学校を含み込むシステムの狡智的機制に内属するものとして捉えられるのである.以下で検討するのは,〈教育と権力〉との内在的関係を分析する際の視覚としてイリイチ的アプローチがもちうる意義と限界についてである.