著者
木村 裕一
出版者
学習院大学
雑誌
学習院大学人文科学論集 (ISSN:09190791)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.19-35, 2010

本論で試みているのは、古典修辞学体系における濫喩の奇妙な位置づけを、アリストテレス、キケロ、クインティリアンにおける隠喩の定義の検証を通じて明らかにすることである。その奇妙さとは、濫喩は一方で非常に周縁的で例外的な修辞形象として隠喩から区別される一方で、反対に修辞体系において最も中心的かつ理想的な形象としての隠喩の定義の際に、避けがたくその特質がついてまわってきてしまうということである。濫喩の特質とはすなわち、言及対象を表現するための言葉が「本来的」には欠如している場合に、代わりの言葉でそれを補完的に表現しようとすることである。そして濫喩のこのような特質は「生きた」隠喩とは反対の価値、すなわち「死んだ」隠喩としてみなされてきた。 このような「生/死」という二項対立的イメージの起源は、アリストテレスによる隠喩の定義にまで遡る。アリストテレスによれば、隠喩とは「生き生きとした」イメージを「眼前に彷彿とさせる(Vor-Augen-Führen)」ことを可能にする修辞形象であり、それによっていかなるものも、たとえそれが不在のものやそもそもそれを表現するべき言葉が欠如してしまっていたとしても、表現することができるものであると定義づけている。すなわち、アリストテレスの修辞体系において、後に濫喩の特質であるとされる「語の欠如の補完」はいまだ隠喩の特質のひとつであり、細分化されてはいない。それに対して「濫喩」を「隠喩」から区別し、細分化し始めるのは、キケロ、ならびにそれに続くクインティリアンである。両者に共通しているのは、「生き生きとした」イメージを「眼前に彷彿とさせる」ことを可能にする隠喩というアリストテレスの定義を引き継ぎ、それを体系の中心的な位置に据えながら、他の修辞形象を差異化していることである。とりわけ、表現すべき言葉の欠如を前提としなければならない「濫喩」的特質は、周縁的で例外的な修辞形象とみなされていくことになる。 つまり古典修辞学の体系の歴史とは、「生き生きとした」イメージによって対象を「眼前に彷彿とさせる」ことができる「良き」隠喩が、体系における理想的かつ中心的な位置を占められるよう、それぞれの修辞形象の定義を細分化・区別していく歴史そのものである。濫喩とは「生き生きとした」イメージの表現を理想とする修辞体系において排除されたものであり、言及対象を表現するための言葉の欠如を覆い隠すことのできない、隠喩の「失敗例」として位置づけられているものである。つまり、濫喩とは「生き生きとした」隠喩の否定的な側面であり、その意味で「死んだ」非─ 隠喩として「良き」隠喩を修辞体系の中心へと位置づけるための「例外的な」修辞形象として必要不可欠なものなのである。

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CiNii 論文 -  古典修辞学体系における「生きた」隠喩と「死んだ」濫喩 https://t.co/vVhKxb0WUj #CiNii

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