- 著者
-
鎌田 道隆
- 出版者
- 奈良大学史学会
- 雑誌
- 奈良史学 (ISSN:02894874)
- 巻号頁・発行日
- vol.11, pp.21-49, 1993-12
織田信長から豊臣秀吉へとうけつがれた政権の流れを、織田政権と豊臣政権の頭字の一字ずつを合わせて、織豊政権とよぶことが一般に定着している。いわゆる天下統一の事業は、織田信長から豊臣秀吉へ、そして徳川家康へとひきつがれたという理解も一般的である。それでは織豊政権というよび方とともに、豊臣政権と徳川政権の頭字を合わせて豊徳政権というよび方が存在するのかといえば、後者の語はこれまで聞かない。おそらく、織田信長の仇を討ち葬儀をも主催した豊臣秀吉の場合は、血脈ではないけれども、正当な後継者として是認されたのに対し、秀吉と徳川家康との関係では、家康が秀吉の政権を纂奪したという評価から、一種の反倫理的なうけとめ方があったからであろう。しかし、豊臣時代を中心にして、天下統一というか近世的統一国家の形成の過程を検証してみると、織田政権から豊臣政権へひきつがれたものもあるが、豊臣政権から徳川政権へと継続されて実を結んでいったものが少なくはない。しかし、織田信長から徳川家康までの政治的な流れが等質であるとか、一貫性があるのかといえば、そうではない。中世から近世への政治的展開は、織田政権と豊臣政権の間や豊臣政権と徳川政権との間にあるのではなく、じつは豊臣政権のなかにその転回があるのではないかと考えられる。すなわち、織田政権の政策をほとんどそのまま継承した前期豊臣政権と、具体的なかたちで近世的統一国家の形成へ踏みだして、徳川政権への連動の道筋をつくった後期豊臣政権というように、豊臣政権というものを前期と後期に二分して理解することが必要なのではないだろうか。豊臣政権の前期から後期への転回を、京都という都市に焦点をすえながら検証してみようとするのが、本稿の課題である。