著者
青野 太潮 Tashio AONO
出版者
西南学院大学学術研究所
雑誌
神学論集 (ISSN:03874109)
巻号頁・発行日
vol.67, no.1, pp.19-62, 2010-03

以下の論考は、2008年11月15-16日に御殿場の東山荘において開催された「学生YMCA 創立120周年記念フォーラム」において「いま、聖書から私たちは何を聴くか――『十字架の神学』と贖罪論――」と題して私が語った主題講演に大幅な加筆・訂正を施したものである。この講演のテープ起こしは、すでに2009年11月30日発行のこのフォーラムの報告書『いま、世界の中で、われらの信の根を問う』(YMCAスタディシリーズ23)、日本YMCA同盟、19-49頁、に掲載されているが、あまりにも舌足らずの部分が多いので、またその報告書を入手するのが困難な方も多いのではないかと思われるので、その改訂版をここに掲載させていただくことにした。しかし改訂したとは言え大幅な重複があるのは事実なので、それについては読者のご寛恕を乞う次第である。

言及状況

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"私独自の訳と「一致」した訳出をなさるのなら、少しくらいはかつての教え子である私の訳の良いところをお褒めくださってもよさそうなものを、と言いたいのだが……。" →田川建三の弟子(仲違い中)からひと言

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https://t.co/a69vTfFH5k十字架が意味する人の悲惨は、人為関与の既成事実背負う罪人の悲惨で、彼が考える様な、仮に罪犯さずとも人がその一員であった被造界災害に翻弄される悲惨と違うんでないかね。被造界の人智超えた意義は、人間が真直ぐに回復した後、解るんでないかね。

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