- 著者
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箱田 恵子
- 出版者
- 宮城教育大学
- 雑誌
- 宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
- 巻号頁・発行日
- vol.49, pp.79-90, 2014
19世紀中央アジアにおける英露対立は、パミールの帰属をめぐって清朝を巻き込み、1892年秋より露清間で国境画定交渉が行なわれた。清朝はウズベリ山からヴィクトリア湖までの国境線を主張したが、これはロシアの南下を防ぎたいイギリスの利害に一致するものだった。だが、1895年に英露が勝手にパミールを分割したことから、このパミール交渉は「以夷制夷」の誤った外交戦術により領土を失った清朝外交の失敗と見なされてきた。だが、外交方針の策定において重要な役割を果たした駐英公使・薛福成の認識を探ったところ、彼はロシアよりもむしろ、清朝の同盟国としての利用価値を疑ってはこの地方の安定を乱すイギリスの動きを警戒していた。それゆえ、ヴィクトリア湖までの領土を主張するという積極的姿勢は、英露間のバランサーとしての清朝の存在価値をイギリスに認めさせるために必要だったのであり、またそれが英露の勢力圏合意形成を促す作用を果たしたのである。