- 著者
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三橋 正
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.50, pp.11-40, 2014-09
個人が日記をつける習慣と過去の日記を保存・利用する「古記録文化」は、官人の職務として発生したものが天皇や上級貴族にも受け入れられ、摂関政治を推進した藤原忠平(八八〇~九四九)によって文化として確立され、子孫に伝承され、貴族社会に定着していった。その日記の付け方は、『九条殿遺誡』にあるように、具注暦に書き込むだけでなく、特別な行事については別記にも記すというものであり、忠平も実践していたことが『貞信公記抄』の異例日付表記などから確認できる。息師輔(九〇八~九六〇)も、具注暦記(現存する『九暦抄』)と部類形式の別記(現存する『九条殿記』)とを書き分けていたことは、具注暦記にはない別記の記事(逸文)が儀式書に引用され、別記に具注暦記(暦記)の記載を注記した部分があることなどから明らかである。従来の研究では、部類は後から編纂されると考えて原『九暦』を想定し、そこから省略本としての『九暦抄』と年中行事書編纂のための『九条殿記』が作られたとしていたが、先入観に基づく学説は見直されるべきである。平親信(九四六~一〇一七)の『親信卿記』についても、原『親信卿記』を想定して自身の六位蔵人時代の日記について一度部類化してから再統合したとの学説があったが、そうではなく、並行して付けていた具注暦記と部類形式の別記を統合したものであった。藤原行成(九七二~一〇二七)の『権記』では、具注暦記のほかに儀式の次第などを記す別記と宣命などを記す目録が並行して付けられていたが、一条天皇の崩御を契機として統合版を作成したようで、その寛弘八年(一〇一一)までの記事がまとめられた。現存する日記(古記録)の写本は統合版が多く、部類形式の別記については研究者に認知されていなかった。本稿により、(日記帳のような)具注暦とは別に(ルーズリーフ・ノートのような)別紙を使って別記を書くという習慣が十世紀前半(忠平の時代)に形成され、十世紀末に両者の統合版を作成して後世に残すという作業が加わるという「古記録文化」の展開が明らかになった。