- 著者
-
細川 周平
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.34, pp.209-248, 2007-03
録音を黙って鑑賞する喫茶店(レコード喫茶と仮に呼ぶ)は日本独自の音楽空間といえる。本論はそのひとつであるジャズ喫茶が昭和初年に生まれ、昭和十年代にスウィングの流行とともに定着した過程を追う。レコード喫茶は録音に依存して欧米音楽を受容せざるを得なかった日本の状況と深く関わっている。録音は大正時代、「缶詰音楽」と軽蔑されるどころか、コンサート興行の基盤が未熟であるために生で演奏を聴けない曲種を知るのに不可欠なテクノロジーとして洋楽評論家に高く評価された。レコード鑑賞空間はそのような前提から生まれた。震災後、カフェが女給のエロティシズムを売り物にしたのに対して、その姉妹施設、喫茶店は主に大学生や若い社会人相手にもっと親密な雰囲気、趣味的なサービスを売り物にした。レコード喫茶は彼ら向けの音楽を聞かせることで一般の喫茶店と区別を図り、レコード、オーディオ、サービス・ガール、インテリアの四つの要素で店の特徴を出した。女給目当ての客も少なくなかったようだが、店の看板はレコード収集と高価な再生装置だった。ジャズ喫茶の始まりには昭和初年の都市中間層の拡大、彼らの新しい娯楽のかたちや感性、趣味の洗練への関心、文化ヒエラルキー観、音響テクノロジーの発展、レコード市場の拡大、ニッチ市場の確立などが関わっている。ジャズ喫茶の勃興はスウィングの人気に刺激された面がある。スウィングは一九二〇年代の白人ジャズと異なり、個人の即興を重んじ、ヨーロッパ音楽の亜流ではない新しい美学を打ち出した。スウィング支持者はそのレコードをダンスの伴奏ではなく、鑑賞に足る芸術と見なし、それにふさわしい世評を書き、演奏家や名曲の録音歴(ディスコグラフィー)を調査した。中古盤市場も充実した。ジャズ喫茶は静寂のなかでレコードを聴きこむ雰囲気を作り出した。それは私財を投資した公共的なレコード収集庫として機能し、愛好家集団の経緯・知識の拠点となった。