著者
難波江 和英
出版者
神戸女学院大学研究所
雑誌
神戸女学院大学論集 = Kobe College studies (ISSN:03891658)
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.69-88, 2016-12

本稿は、アガサ・クリスティ(1890-1976)の『バートラム・ホテルにて』(1965)に関して、これまでジャンル批評ではあまり評価されてこなかったミステリーとしての側面を踏まえ、改めて、その文学作品としての真価を記号論の観点から明らかにする試みである。『バートラム・ホテルにて』は、主人公のミス・マーブルよりデイビー警部の活躍が目立つため、「警察小説」のように見え、ミステリーとしても「凡作」と思われてきた。しかし、ミステリーというジャンルを創作の枠組みとしながらも、「ミステリー」というカテゴリーを批評の軸とする視点からは見えてこない何かを浮かび上がらせるように描くことーそこにこそ、クリスティが夢見た文学の理想はあったと考えられる。その「何か」とは、この作品の単なる背景と思われてきたバートラム・ホテルが、20世紀後半に「仮想現実」と呼ばれ始める人工のリアリティや、テーマパークとして花開く記号系の商品を先取りしていた点に求められる。バートラム・ホテルは、原理としてはエドワード王朝の「見せかけ」であるにもかかわらず、経験としては「オリジナル VS. コピー」という二項対立を無効にする「ほんもの」としてのリアリティを帯びながら、時間の壁を越えている。それと同様に、ホテルをめぐる日常風景と犯罪行為も、それぞれ「見せかけ」と「ほんもの」を反転させるという構造を取りながら、ホテル全体を一つの記号 "pockets" として、つまり「客の隠れ場ー犯人の隠れ家」として表裏一体に構成していく。クリスティが「ミステリー」を媒体として描こうとしたのは、まさに仮想現実を思わせるほど「見せかけ=ほんもの」が広がる記号の世界だったと言える。現実は虚構、虚構は現実。人間とは、その反転を生きる役者。クリスティは『バートラム・ホテルにて』において、ホテル全体を記号の世界に仕立てながら、このシェイクスピアのメッセージを現代に甦らせている。

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