- 著者
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原田 敬一
- 出版者
- 京都大學人文科學研究所
- 雑誌
- 人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
- 巻号頁・発行日
- no.111, pp.163-207, 2018
特集 : 日清戦争と東学農民戦争Special Issue: the Shino-Japanese War and the Donghak Peasant War1894年の東学農民運動は, 現代韓国では朴孟洙氏の研究に見られるように, 李朝末期の政治改革運動の中で捉えなおし, 東学農民戦争とも東学農民革命ともいう。現代日本では, 日清戦争研究の深まりとともに実態の解明が進み, 中塚明・井上勝生両氏により「もう一つの日清戦争」と呼ばれる。本稿では, 日本のメディアが東学農民運動をどのように伝えていたのかを究明した。戦争は国家による内外への機密情報排除をもって進められる。大本営の設置も, 帝国議会にもメディアにも秘匿されたまま行われた。日本政府は, 戦争の大義名分を得るため, 「遅れた朝鮮の政治を改革する」といい, 協力しない清国を武力で朝鮮半島から駆逐するという筋に従って外交交渉を進め, 朝鮮王宮占領作戦も成し遂げた(7月23日戦争)。日本メディアは, 日本政府の筋書きに沿う「遅れた朝鮮政治」という報道を展開したが, その報道は, 朝鮮政府を批判して起った東学農民運動に対する「期待」を生んだ。日本メディアには幕臣が多いという出自から「反政府」色があり, さらに日本近代のジャーナリストには「アジア主義」の影響が強いという特色があった。日本近代の有力新聞である『東京朝日新聞』, 発行部数はそれに劣るもののオピニオン・リーダーとしての有力紙『日本』(主筆 : 陸羯南), 日本の雑誌ジャーナリズムを形成していった有力雑誌『日清戦争実記』(博文館)の3紙誌をとりあげ, 3紙誌の「東学農民運動報道」を総て採集して分析した。その結果, 当初「改革派東学党」というイメージでの取材・報道であった『東京朝日』と『日本』が, しだいに「暴徒東学党」に傾いていったことが辿れた。この変化は, 東学農民運動が抗日運動として有力になることと並行している。日本と同伴する「改革派」というイメージを棄てた2紙は, 独自取材を減少させ, 大本営発表を転載するように変化した。雑誌ジャーナリズムの嚆矢と言われる『日清戦争実記』は当初より東学農民運動を大本営発表の転載のみだったことも明らかになった。This paper explores how Japanese mass media communicated the Donghak Peasant Movement. Generally, war involves confidential information control by the state. Installation of the imperial general headquarters was proceeded secretly to mass media and the imperial diet. To present a just cause, the Japanese government claimed that they would reform the premodern politics of Korea. Japan proceeded diplomatic negotiation to expel uncooperating Qing China and planned military occupation of the Korean palace. This paper analyzes all the reports on the Donghak Peasant Movement by the major journalistic magazine "Nisshin Senso Jikki" and two of the most influential newspapers "Tokyo Asahi Shinbun" and "Nippon". The analysis shows that although "Tokyo Asahi" and "Nippon" saw the Donghak Peasant Revolution as reformists, they gradually reported it as rioters. This change parallels the transition of the Donghak Peasant Movement to a major anti-Japanese resistance. The two newspapers which renounced reformist image of the Donghak Peasant Movement reduced their own coverage and began to reprint the announcement of the imperial general headquarters. It is demonstrated that although sometimes seen as the first journalist magazine, "Nisshin Sensou Jikki" had only reprinted the anouncements of the imperial general headquarters from the beginning.