著者
原田 敬一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 = Journal of the School of History (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.8, pp.19-38, 2018-03

第七師団歩兵聯隊の上等兵が、従軍中に書き続けた日記の翻刻。氏名不詳。召集まで北海道焼尻島警察分署に勤務していた警察官。従軍中に伍長に任じられ下士官となった。記録の期間は、一九〇四年一一月一三日大阪港を出発し、奉天会戦などに参戦し、一九〇六年二月一八日三台子から「凱旋ノ途」につき、二八日神戸港に着くが上陸許可されず、三月三日室蘭港に入港、市民数十万人の歓迎を受け、帰国。一六日増毛に入港して、故郷の歓迎を受ける一八日までの日誌である。休戦協定以後の隊内娯楽の記述は珍しく、また講和成立に対する聯隊長と兵士の差が面白い。今回は、二回連載の前半部になる。日露戦争従軍日記歩兵聯隊乗馬歩兵隊第七師団
著者
小田 康徳 原田 敬一 赤澤 史朗 佐久間 貴士 原田 敬一 赤澤 史朗 佐久間 貴士 大谷 栄一
出版者
大阪電気通信大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2010

大阪市天王寺区内所在の旧真田山陸軍墓地内納骨堂に合葬される骨壺等1件ずつについて、納骨堂内の所在場所、戦没者氏名、所属部隊、階級、戦没地、戦没年月日、本籍地、現住所、遺族、遺骨の有無、同梱物などに分類してデータ化を進め、その結果、件数は8249件、実際の合葬者数は8230人前後という事実が判明した。なかでも戦局が絶望的となった1944年、45年には急増する戦没者(大阪府だけで約9万7千人と推測)のうち、わずかに1303人分の合葬しか実現できていないこと、しかもそのうち約7割が遺骨なしの状況であることを解明した。
著者
原田 敬一 大谷 正
出版者
佛教大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1993

本年度は、防衛庁戦史部図書館・岡山県立図書館・福島県歴史資料館・富山県立図書館・富山公文書館所蔵の、公文書・編纂物・記録・新聞を調査・検索・複写・収集に努めた。その結果、第一に日清戦争での軍夫の動員数などが『明治廿七八年戦役統計』(防衛庁戦史図書館所蔵)で判明した。この史料によると、軍夫は兵站部だけでなく、師団に直接参加している。ただこれでも軍夫の被害数は不明で、収集した史料のうち兵庫県の『戦役記念金蘭簿・飾磨群』などは軍夫記述自体がない。ただ『福島県従軍者名誉簿』(福島県歴史資料館所蔵)は、軍夫の性行・送金などのほか氏名・略歴なども記録しており、他の地域にも同様の記録が存在する可能性を発見した。第二に、軍夫の募集・集合に県庁・群役所など地方庁の役人が積極的に関わったことが明らかになった。師団司令部の軍夫必要数の提起に従って、地方庁の役人が直ちに町村へ派遣され、雇用条件等について説明し、予定数の募集に従事した。応募した軍夫候補者は、軍医によって診断され、採否が決定される。みごと軍夫となったものは、大倉組などの民間雇用組織に所属して、戦地へ向かった。賃金は、師団司令部から民間雇用組織に支払われるという間接的雇用形態に終始した。そのため、戦後になって賃金・負傷などの手当をめぐり、いわゆる軍夫問題と言われるものが起きることになった。福島県では、全体の引率者として県の役人が休職して参加しており、戦後直ちに復職しているから、行政の一機能として参加したと思われる。軍夫は、民間人と行政官庁、軍隊が錯綜した複雑な問題であることが、今回の幾つかの地方に限定した調査でも明らかになった。これが普遍的な問題であることを証明するには、いっそう広い地域での調査が必要である。第三に、軍夫の戦場での実施がやや明らかになった。戦地派遣前には非武装が軍から指示されていたにも関わらず、多くの軍夫は武装しており、兵站を狙った攻撃によって戦闘にも加わり死傷者も出た。それだけでなく、第一線にいた軍夫は、軍夫の身分のまま、軍隊から砲兵隊や衛生隊などに再組織され、戦闘に加わった。これは、国際法を無視した重要な問題であった。これが戦史に記録されていないから、なぜ不問に付されたのかも今後の追求課題である。
著者
原田 敬一
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 = Journal of humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.111, pp.163-207, 2018

特集 : 日清戦争と東学農民戦争Special Issue: the Shino-Japanese War and the Donghak Peasant War1894年の東学農民運動は, 現代韓国では朴孟洙氏の研究に見られるように, 李朝末期の政治改革運動の中で捉えなおし, 東学農民戦争とも東学農民革命ともいう。現代日本では, 日清戦争研究の深まりとともに実態の解明が進み, 中塚明・井上勝生両氏により「もう一つの日清戦争」と呼ばれる。本稿では, 日本のメディアが東学農民運動をどのように伝えていたのかを究明した。戦争は国家による内外への機密情報排除をもって進められる。大本営の設置も, 帝国議会にもメディアにも秘匿されたまま行われた。日本政府は, 戦争の大義名分を得るため, 「遅れた朝鮮の政治を改革する」といい, 協力しない清国を武力で朝鮮半島から駆逐するという筋に従って外交交渉を進め, 朝鮮王宮占領作戦も成し遂げた(7月23日戦争)。日本メディアは, 日本政府の筋書きに沿う「遅れた朝鮮政治」という報道を展開したが, その報道は, 朝鮮政府を批判して起った東学農民運動に対する「期待」を生んだ。日本メディアには幕臣が多いという出自から「反政府」色があり, さらに日本近代のジャーナリストには「アジア主義」の影響が強いという特色があった。日本近代の有力新聞である『東京朝日新聞』, 発行部数はそれに劣るもののオピニオン・リーダーとしての有力紙『日本』(主筆 : 陸羯南), 日本の雑誌ジャーナリズムを形成していった有力雑誌『日清戦争実記』(博文館)の3紙誌をとりあげ, 3紙誌の「東学農民運動報道」を総て採集して分析した。その結果, 当初「改革派東学党」というイメージでの取材・報道であった『東京朝日』と『日本』が, しだいに「暴徒東学党」に傾いていったことが辿れた。この変化は, 東学農民運動が抗日運動として有力になることと並行している。日本と同伴する「改革派」というイメージを棄てた2紙は, 独自取材を減少させ, 大本営発表を転載するように変化した。雑誌ジャーナリズムの嚆矢と言われる『日清戦争実記』は当初より東学農民運動を大本営発表の転載のみだったことも明らかになった。This paper explores how Japanese mass media communicated the Donghak Peasant Movement. Generally, war involves confidential information control by the state. Installation of the imperial general headquarters was proceeded secretly to mass media and the imperial diet. To present a just cause, the Japanese government claimed that they would reform the premodern politics of Korea. Japan proceeded diplomatic negotiation to expel uncooperating Qing China and planned military occupation of the Korean palace. This paper analyzes all the reports on the Donghak Peasant Movement by the major journalistic magazine "Nisshin Senso Jikki" and two of the most influential newspapers "Tokyo Asahi Shinbun" and "Nippon". The analysis shows that although "Tokyo Asahi" and "Nippon" saw the Donghak Peasant Revolution as reformists, they gradually reported it as rioters. This change parallels the transition of the Donghak Peasant Movement to a major anti-Japanese resistance. The two newspapers which renounced reformist image of the Donghak Peasant Movement reduced their own coverage and began to reprint the announcement of the imperial general headquarters. It is demonstrated that although sometimes seen as the first journalist magazine, "Nisshin Sensou Jikki" had only reprinted the anouncements of the imperial general headquarters from the beginning.
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.103-124, 2014-03-01

本稿は、新出の史料である「従軍日誌」一編を使用して、「日清戦争」を従軍者がどのように描いているか、を追究した『歴史学部論集』創刊号以来掲載してきた論考の続きである。何度も繰り返すが、「従軍日誌」の著者は、混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊に属する将校であり、一八九四年六月六日から翌年二月一四日まで日記を書き続けた。戦争が終わって後の清書や、整然と整理された刊行物ではなく、戦場という現場で書いていた日記と推測される。しかもこの執筆者は、日本の大本営が、日清戦争開戦前に、「居留民保護」を名目に朝鮮に派兵した混成第九旅団のうち、最初に派遣された部隊の一員であったという特色がある。参謀本部が編纂し、刊行した『日清戦史』全八巻には、中塚明氏や一ノ瀬俊也氏などにより遺漏や改ざんの跡がいくつか指摘されており、そのことも、「従軍日誌」という軍人自身の記述により再検討することができる。『歴史学部論集』創刊号に六月六日から七月二六日まで、同第2号に七月二七日から九月一四日(平壌総攻撃前日)まで、第3号に九月一五日(平壌総攻撃日)から一〇月二三日まで掲載した。本号は、鴨緑江渡河戦にむかう一〇月二四日から、鴨緑江渡河戦、九連城攻略戦を経て、冬期の鳳凰城守備戦になる。以後は次号となる。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.6, pp.95-113, 2016-03

青森県南津軽郡野沢村出身の對馬政治郎が記した、日露戦争従軍日記の翻刻紹介。對馬政治郎日露戦争従軍日記青森県野沢村浪岡町
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学歴史学部
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
no.8, pp.19-38, 2018-03-01

第七師団歩兵聯隊の上等兵が、従軍中に書き続けた日記の翻刻。氏名不詳。召集まで北海道焼尻島警察分署に勤務していた警察官。従軍中に伍長に任じられ下士官となった。記録の期間は、一九〇四年一一月一三日大阪港を出発し、奉天会戦などに参戦し、一九〇六年二月一八日三台子から「凱旋ノ途」につき、二八日神戸港に着くが上陸許可されず、三月三日室蘭港に入港、市民数十万人の歓迎を受け、帰国。一六日増毛に入港して、故郷の歓迎を受ける一八日までの日誌である。休戦協定以後の隊内娯楽の記述は珍しく、また講和成立に対する聯隊長と兵士の差が面白い。今回は、二回連載の前半部になる。日露戦争従軍日記歩兵聯隊乗馬歩兵隊第七師団
著者
谷口 眞子 中島 浩貴 竹本 知行 小松 香織 丸畠 宏太 斉藤 恵太 柳澤 明 長谷部 圭彦 原田 敬一 佐々木 真 吉澤 誠一郎 鈴木 直志 小暮 実徳
出版者
早稲田大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2019-04-01

本研究は、国民国家が形成される19世紀を中心とし、軍人のグローバルな移動による人的ネットワークと、軍事関連書の翻訳・流通・受容という分析視角から、軍事的学知の交錯を研究するものである。日本・フランス・ドイツを主とし、オランダ・オスマン帝国・清朝を参照系と位置づけ、軍人と軍事関連書(人とモノ)の移動から、軍事的学知(学知)に光を当てることにより、軍事史的観点からみた新たな世界史像を提起したい。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
文学部論集 (ISSN:09189416)
巻号頁・発行日
vol.88, pp.15-29, 2004-03-01

第一次世界大戦で00万人以上の戦没者母出した英数仏三ケ国は戦後、戦場に大小の戦争慕地(軍用慕地〉を建設した。若物たちの大量死という現実は、相当な慰霊の施設を作ることを世論として国家に要求することになった。英仏の首都にある「無名戦の墓」が有名ではあるが、それは戦場に作られた基地のおり方を前提として存在する。逆ではない。こうたあり方の究明を通じて、国民国家の戦没者追悼の現代的あり方が考察されねばならはない。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.21-41, 2015-03-01

本稿は、新出の史料である「従軍日誌」一編を使用して、「日清戦争」を従軍者がどのように描いているか、を追究した『歴史学部論集』創刊号以来掲載してきた論考の続きである。「従軍日誌」の著者は、混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊に属する将校(下士官の可能性は完全には排除できていない)であり、一八九四年六月六日から翌年二月一四日まで日記を書き続けた。戦争が終わって後の清書や、整然と整理された刊行物ではなく、戦場という現場で書いていた日記と推測される。しかもこの執筆者は、日本の大本営が、日清戦争開戦前に、「居留民保護」を名目に朝鮮に派兵した混成第九旅団のうち、最初に派遣された部隊の一員であったという特色がある。参謀本部が編纂し、刊行した『日清戦史』全八巻には、中塚明氏や一ノ瀬俊也氏などにより遺漏や改ざんの跡がいくつか指摘されており、そのことも、「従軍日誌」という軍人自身の記述により再検討することができる。『歴史学部論集』創刊号に六月六日から七月二六日まで、同第二号に七月二七日から九月一四日(平壌総攻撃前日)まで、第三号に九月一五日(平壌総攻撃日)から一〇月二三日まで、第四号に鴨緑江渡河戦にむかう一〇月二四日から、鴨緑江渡河戦、九連城攻略戦を経て、冬期の鳳凰城攻略戦情報までを掲載した。本号は、朝鮮の義州での冬営、年末の九連城ヘの進駐と続き、二月一八日突然終わる。今回がこの『従軍日誌』についての最終報告である。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.43-63, 2013-03-01

本稿は、新出の史料である「従軍日誌」一編を使用して、「日清戦争」を従軍者がどのように描いているか、を追究した前号・前々号掲載論考の続きである。「従軍日誌」の著者は、混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊に属する将校であり、一八九四年六月六日から翌年二月一四日まで日記を書き続けた。戦後の清書や刊行物ではなく、現場で書いていた日記と推測され、しかも執筆者は、日本が日清戦争開戦前に朝鮮に派兵した最初の部隊の一員であった。参謀本部が編纂し、刊行した『日清戦史』全八巻には、中塚明氏などにより遺漏や改ざんの跡がいくつか指摘されており、そうした点も、「従軍日誌」という軍人自身の記述により再検討することができる。『歴史学部論集』第1号に六月六日から七月二六日まで、同第2号に七月二七日から九月一四日(平壌総攻撃前日)までを掲載した。本号には九月一五日(平壌総攻撃日)から一〇月二三日まで掲載する。鴨緑江渡河戦以降は次号となる。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.71-90, 2012-03-01

本稿は、新出の史料である「従軍日誌」一編を使用して、「日清戦争」を従軍者がどのように描いているか、を追究した前号掲載論考の続きである。この「従軍日誌」の著者は、混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊に属する将校であり、一八九四年六月六日から翌年二月一四日まで日記を書き続けた。戦後の清書や刊行物ではなく、現場で書いていた日記と推測される意味でも、所属する部隊も日本が日清戦争開戦前に朝鮮に派兵した最初の部隊の一員であったという意味でも貴重である。参謀本部が編纂し、刊行した『日清戦史』全八巻には、いくつかの遺漏や改ざんの跡が指摘されており、そうした点も、「従軍日誌」という軍人自身の記述により再検討することができる。前号に六月六日から七月二六日までを掲載し、今号は七月二七日から九月一四日(平壌総攻撃前日)までを掲載する。
著者
原田 敬一
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.19-37, 2011-03-01

本稿は、新出の史料である「従軍日記」一編を使用して、「日清戦争」を従軍者がどのように描いているか、を追究する。この「従軍日記」の著者は、混成第九旅団野戦砲兵第五聯隊第三大隊第五中隊に属する将校であり、一八九四年六月六日から翌年二月一四日まで日記を書き続けた。戦後の清書や刊行物ではなく、現場で書いていた日記と推測され、日本が日清戦争開戦前に朝鮮に派兵した最初の部隊の一員であった。参謀本部が編纂し、刊行した『日清戦史』全八巻には、いくつかの遺漏や改ざんの跡が指摘されており、そうした点も、「従軍日記」という軍人自身の記述により再検討することができる。