著者
井上 勝生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.66, no.5, pp.p599-647, 1983-09

幕末の長州藩を素材として、藩体制の絶対主義化の前進を検証し、絶対主義化の要となった権力機構、推進者、そして権力闘争の展開を検討する。これによって、形成過程の日本絶対主義と幕藩体制の連続の問題、および絶対主義の日本的特質の一端が明らかになると思う。長州藩の藩体制の絶対主義化は、安政五年の藩政改革から始まる。要となった権力機構は、従来から存在した御前会議である。この改革によって、御前会議は、「規格(掟) 」とされ、拡大強化された。御前会議で藩主と政府員が決定した政策は、藩主の親政によるものであり、藩主の上意であるとして、藩士に強制されたのである。まず、このようにして、保守的家臣団の反対が強かった洋式軍制改革が強行される。やがて御前会議は、藩士大衆の意向を無視して、独自に政策を決定し、これを藩士に強制する機構となる。それを証明する事例のひとつが、文久二年、政府員内部の反対をすらも押し切って、尊王攘夷の藩是を決定した御前会議である。当然、藩士からの、この藩是にたいする反抗は強く、政府は、苦境に陥る。周布政之助、木戸孝允、高杉晋作は、この反抗を抑圧するために、文久三年、藩政改革を行い、江戸と萩に分かれていた藩政府を一元化するなどの、藩制の基本にかかわる改革を行った。権力機構の集中化であり、御前会議も、日常的に藩主が臨席する政事堂へと発展する。この権力集中を推進したのは、すでに藩政の実権を握り、天保期から「有司」と呼ばれていた、右筆(のち政務座役) を始めとする実務役入である。 「有司」の系譜のひとつは、天保改革の指導者、村田清風に始まり、周布、木戸へと続いている。彼らは、いずれも要職の右筆から昇進し、御前会議の主導権を握り、藩の絶対主義化を推進した。したがって、藩体制の絶対主義化は、実体としては、 「有司」の専制、形式としては、藩主の親政という独特の複合した構造を持っている。本稿は、これを「日本的な親政の体制」と呼ぶ。文久期までは、藩主の親政という形式が前面に出て、 「有司」の専制は、背景にあった。しかし、反政府派の反抗によって、藩主の弱体が明らかになり、慶応期には、 「有司」の専制の実体が前面に登場する。これは、親政という形式の希薄化であり、この形式から出発した藩体制の絶対主義化の崩壊は、避け難いのである。長州藩の「有司」は、日本の有司とならざるをえない。

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