著者
井上 勝生
出版者
北海道大学
雑誌
北大百二十五年史
巻号頁・発行日
vol.論文・資料編, pp.111-162, 2003-02-21
著者
吉田 邦彦 遠藤 乾 辻 康夫 丸山 博 ゲーマン・ジェフリー ジョセフ 井上 勝生 上村 英明
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2016-07-19

第1に補償問題に関する研究はかなり進捗した。そのうちの1つめとして主力を注いだのは、先住民族研究の中のアイヌ民族に関するもので、2016年4月発足の市民会議(代表者は、分担者丸山)を本年度も鋭意続行し(2017年3月、6月、10月)、その報告書も公表した。関連して、海外の研究者との関連も密にし、コロラド大学でのアメリカ原住民研究者との意見交換(2017年5月)、アラスカ大学でのアラスカ原住民研究会議報告及び意見交換(2017年4月)(ニューメキシコ大学には前年度訪問(2017円1月))、北欧での北極圏会議の参加,ウメオ大学での北大交流会では、特にサーミ民族との比較研究に留意して意見交換をし、講演も行った(2017年6月、2018年2月)(オーストラリアのアボリジニー問題の比較研究は、前年度末(2017年3月)にオーストラリア国立大学で講義)。近時のホットな問題である遺骨返還について、ベルリン自由大学のシーア教授とも意見交換した(2017年7月)。補償問題の2つめは、済州島の悲劇に即して,ノースキャロライナ大学でのシンポを主催し、アメリカの補償責任との関係で、連邦議員とも意見交換した(2017年5月)。済州大学との提携での学生も交えたシンポも例年通り行っている(2017年8月)。さらにこの関連では、奴隷制に関わる補償論調査のためにアラバマ大学を初訪問し(2017年10月)、さらにチュレーン大学での補償問題のシンポで報告した(2018年3月)。第2に、移民問題との関係では、北大のサマーインスティチュートの一環で、UCLAのモトムラ教授、マイアミ大学のエイブラハム教授、トルコの中近東大学のカレ教授を北大に招聘してのシンポ及び講義・討論を実施した。さらにこの問題群を深めるのは、今後の課題である。関連して、メキシコ国境の環境問題についても調査する機会も得た(2018年1月)。
著者
井上 勝生
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2006

研究実績の概要は、次のようである。1)朝鮮に派遣され、農民軍を鎮圧した守備隊史料を、多数収集した。守備隊の史料を所蔵する防衛研究所図書館史料、守備隊が編成された四国四県の新聞史料など、総指揮官の出身地である山口県文書館の史料など、多くの新しい史料を発見した。朝鮮農民の死者、三万人以上の大被害が発生した。朝鮮守備隊は、広島大本営が直轄しており、日朝間の交信記録を分析し、最強硬の弾圧命令が大本営指導部から出たことを明らかにできた(成果報告書)。抗日農民戦争は、大規模になり、ソウルに向かっていた。大本営は、日清戦争を中国領へ拡げるなかで、欧米が、農民蜂起を名目に、朝鮮へ介入してくることを恐れており、朝鮮農民軍の殲滅作戦が着手されたのであった。現地の部隊ではなく、大本営の首相や外相も含んだ戦争指導部が、最強硬の弾圧作戦を指導したことが、後の日本近代史に影響を与えたことも指摘した。守備隊編成地、四国では、農民軍討伐作戦中の、戦死者の個別事例を、新聞史料から掘り起こした。地元部隊が、農民軍大討伐作戦に朝鮮に投入されたことは、今日、知られていない。参謀部日清戦史でも、記述がない。戦死者個別事例を靖国神社の殉難記録でみると、中国軍との、別の戦場での、別の日の戦死に、変えられていることが判明した。記録と記憶の抹殺である。なお史料を探索し、発表する予定である。守備隊の総指揮官は、幕末の長州藩の元志士であった。駐韓公使井上馨と、同じ有志隊に入っていたことも発見した。井上公使は、最強硬な農民軍鎮圧作戦を主導していた。この関係を発見したので、さらに、事実関係を調べて、発表する予定である。
著者
井上 勝生
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.111, pp.67-91, 2018-03-30

特集 : 日清戦争と東学農民戦争Special Issue: the Shino-Japanese War and the Donghak Peasant War本史料は, 日清戦争中, 第五師団後備第19大隊に従軍した一兵卒の従軍日誌である。同大隊は, 当時も「東学党討滅大隊」と呼ばれていた東学農民軍殲滅部隊である。筆者の兵士は, 1894年7月23日, 召集令状を受取り, 松山市で後備第19大隊へ入り, 最初, 下関守備隊に就く。ついで10月28日, 東学党討滅のために, 渡韓を命令され, 11月12日, 龍山を出発, 東学農民軍に対する「3路包囲殲滅作戦」に従軍した。兵士は, 同大隊の第1中隊に配属され, 東側の道を進軍する。京畿道利川から忠清道忠州, 鳥嶺を越えて, 慶尚道聞慶へ入り, 全羅道南原へ, さらに南部の長興戦争などに参戦。討滅は, 出発の3日後, 利川で, 指導者の子息を投獄, 銃殺するところから始められる。以後, 東学農民軍の集結する村落を襲撃し, 指導者らを銃殺。途中, 大隊本部・第3中隊へ軍資金を運搬する任務にあたっては, 文義・沃川戦争直後の村々の惨状を目撃, 慶尚道から全羅道へと討伐に従軍した。南原以後, 討伐は, 拷問・銃殺・焼殺, 村の焼き払いなども激化する。討伐作戦最前線の戦場の状況が記されている学術的に貴重な歴史史料である。This is the full text of the "campaign journal" kept by one of the soldiers participating in the Japanese offensive against the Donhak Peasant Army in Korea, during the Sino-Japanese War. It describes the total annihilation campaign carried out by the Japanese, including shooting captured members of the Peasant Army, burning their villages, and direct gunfights between the two sides. The detailed account of the situation on the battlefront makes it an extremely valuable historical resource.
著者
井上 勝生
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.111, pp.1-65, 2018-03-30

特集 : 日清戦争と東学農民戦争Special Issue: the Shino-Japanese War and the Donghak Peasant War日清戦争の際に, 日本軍は, 朝鮮各地において, 数千人, 数万人の勢力をもって抗戦する朝鮮農民軍に対して, 包囲殲滅作戦を展開した。第2次の東学農民戦争, または甲午農民戦争, 韓国では東学農民革命と呼ばれる。当時の日本公使館が農民軍指導部文書を組織的に奪取し, 日本軍の公式日誌, 「陣中日誌」も重要部分欠落などのために, 現在も東学農民戦争の全体像は明らかでない。東学農民軍を殲滅した大隊の一つが, 後備第19大隊である。その第1中隊に従軍した徳島県出身の一兵卒の「従軍日誌」に, 同大隊が実施した殲滅作戦最前線の実況が記録されていた。本稿前半では, 京畿道利川の市内と近郊, 忠清道可興北の平野にある東幕里, 忠清道清風北の盆地, 城内里で展開した作戦を, 現地調査にもとづいて検証した。当初から殲滅作戦として実施され, 銃撃戦も早くから戦われた。農民軍を捕縛, 銃殺し, 農民軍の拠点村落を焼き払う作戦であった。いわゆる北接農民軍が, 主力の全羅道の南接農民軍へと合同, 参戦したことも見聞して記されていた。後半では, 最大の激戦と言われてきた公州戦争の, その東側, 錦江大渓谷における文義・沃川戦争が, 公州戦争に劣らない大戦争であったこと, 南原においては, 農民軍拠点の城山と民家を重ねて焼き払う作戦を展開したこと, また南西部海岸地域における討滅作戦が, 拷問, 銃殺, 焼殺, 村の焼き払いと, いっそう苛酷に展開したことなどを現地調査も行って解明した。結びでは, 後備部隊に徴兵された「貧困な兵士」群, 苛酷な作戦における士官と兵士の社会史などを検討した。During the Sino-Japanese War, the Japanese Army aimed to annihilate the resisting Donghak Peasant Army. Based on our detailed fieldwork in Korea, we were able to reenact the military operations of the Japanese Army against the Peasant Army, as described in the Soldiersʼ Campaign Journal 従軍日誌〕.Thus, we have verified the fact that the Japanese campaign was indeed one of complete annihilation, carried out in the city, as well as in the plains, hills, valleys, and mountain castles, by capturing and killing the members of the Peasant Army and burning their villages.
著者
井上 勝生
出版者
岩波書店
雑誌
図書
巻号頁・発行日
no.751, pp.7-11, 2011-09
著者
井上 勝生
出版者
史学研究会 (京都大学文学部内)
雑誌
史林 (ISSN:03869369)
巻号頁・発行日
vol.72, no.3, pp.p359-401, 1989-05

個人情報保護のため削除部分あり天皇誕生日の祝祭(天長節) は欧米諸国の国王の誕生日祝典の模倣と推測されている。近世社会に欧米諸国のような国民的祝祭はなかったが、天皇誕生日の祭祀は天皇や女官による私的な祝賀として存続していた。維新政府は、一八六八年の発足当初から、天皇誕生日の国民全体の祝祭を指示した。近代日本の国民全体の祝祭布告の初見である。京都府や東京府は、維新政府の布告をうけて独自の布告を出したものの、実施には消極的であり、祝祭もなかった。一方、長崎と横浜という開港場では盛大な祝祭が行われ、一部の藩でも庶民の祝祭が見られる。しかし、それらの祝祭は伝統社会の祭りの動向によって規制されてゆくのであった。やがて日本全体の重要な祭祀となる天皇誕生日の祝祭の、一八六八年における実施のされ方には一定の偏向が認められる。そこに作用したのは、維新政府の欧米諸国との協調政策にもとづいたラディカルな統合政策と伝統社会との対抗であった。It is supposed that ceremonies in celebration of the Emperor's birthday (tentyosetsu 天長節) were held in imitation of Western practices of celebrating the birthdays of their kings. Although there was no national celebration in early modern Japan, the Emperor's birthday was celebrated privately by the Emperor and court ladies. Soon after its establishiment, the Government of the Restoration (Ishinseifu 維新政府) directed that the Emperor's birthday should be celebrated nationally. This was the first time in modern Japan that it had been decreed that the occasion should be celebrated by everyone. However, Kyoto and Tokyo prefectures issued statements in opposition to the decree and did not hold any ceremonies. On the other hand, in Nagasaki and Yokohama, ports open to foreign trade, there were grand ceremonies. Additionally in some han (domains) there were popular ceremonies. Nevertheless, the trends of these celebrations were influenced by ceremonies of a traditional nature. Certain inclinations can be found in the manner in which the Emperor's birthday was celebrated in 1868, leading to its becoming an important ceremony in all parts of Japan in later years. This was the result of the Government of the Restoration's receptive policies towards Europe and America and the resulting confrontation with traditional society.
著者
井上 勝生
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2015-04-01

昨年夏、家族が事故にあい、その介護などのため、現地調査が必要な本研究は滞った。昨年度は、そのようななかでも、研究誌(東学農民戦争特集号)に、論文と史料紹介発表を実現することが出来た。論文と史料紹介の2本で、京都大学人文科学研究所『人文学報 特集 日清戦争と東学農民戦争』111号に、巻頭論文「東学農民戦争、抗日蜂起と殲滅作戦の史実を探究して――韓国中央山岳地帯を中心に――」と史料紹介「東学党討伐隊兵士の従軍日誌――「日清交戦従軍日誌」徳島県阿波郡――」を発表した。史料紹介は、東学農民軍殲滅に従軍した四国出身、一日本兵士の「従軍日誌」復刻である。後備兵への応召、東学農民軍討滅のための渡韓。ソウルから三路に分かれ出軍。東路進撃。京畿道・忠清道での討伐。東の慶尚道を討伐しつつ南下。縦断する山岳を越え、西の全羅道へ転回。農民軍主力が集結していた南原から、長興、羅州へと東学農民軍を殲滅。公式記録に記されない現場の様相を兵士が記した「従軍日誌」を原文通りに復刻し、農民軍の拠点村々全部の焼き打ち。銃殺、焼き殺し、銃剣による刺殺、苛烈な戦闘状況など。忘れられていた戦場を韓国側研究者と共同の現地踏査と、文献資料にもとづいて検証した。その結果、討伐戦争が、これまでの想定をおおきく越える徹底したものであったこと、戦場も、知られていなかった利川、東幕里、城内里、文義・沃川、南原などを現地調査し、もっと広範なものであったことなどを検証した。この「従軍日誌」現地調査は、韓国の東学農民戦争第一線の研究者らと共同で行ったが、まだなかばを残している。
著者
井上 勝生
出版者
北海道大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009

日本軍の討伐大隊長文書と戦死兵の石碑碑文、討伐軍兵士個人の従軍日誌複数などを見出した。朝鮮農民ら東学農民軍の抗日蜂起は、従来は注目されなかった中央部山岳地帯で一斉に始まった。この時に、広島の大本営こそが、農民軍主力ほか全部を包囲殲滅する作戦を立案し、派兵した。作戦の後半では、日本軍指導部から殲滅命令が続発されており、朝鮮農民軍数万人以上の厖大な死者を出した。この事実関係を解明・実証した。

1 0 0 0 幕末・維新

著者
井上勝生著
出版者
岩波書店
巻号頁・発行日
2006