- 著者
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村上 亮
- 出版者
- 史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)
- 雑誌
- 史林 (ISSN:03869369)
- 巻号頁・発行日
- vol.99, no.4, pp.558-586, 2016-07
本稿は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(一九〇八年一○月) を題材として、ハプスブルク独特の二重帝国体制に従来とは異なる角度から光をあてることを目的とする。とくに今回は、他の首脳に先がけて併合を上奏した共通財務相ブリアーンに着目する。具体的には彼による二つの『建自書』を中心に、併合に至るハプスブルク国内の動向の検討から、オーストリアとハンガリーの枠組みをこえた帝国全体に関わる案件(「共通案件」) の決定過程を浮き彫りにする。考察の結果、ブリアーンが占領状態に起因する民族運動をおさえるために併合を発意したこと、ブリアーンの計画が共通外務相エーレンタールらの影響を受けつつも、併合への道筋を整えたことが示される。ただし、ハプスブルク家の継承法(「国事詔書」) をめぐる折衝の不調は、ボスニアの「合法的」な併合を不可能とした。ここからは、帝国中枢における政策決定の多元性と機能不全がみてとれるのである。