著者
藤田 晋吾
出版者
The Philosophical Association of Japan
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
no.23, pp.85-96, 1973

言語における語の〈意味〉、一般に記号の〈意味〉とは何かという問題は、種々の仕方で答えられようけれども、そもそも何故〈意味〉が問題となるのかということが予め了解されていないと、的はずれの議論をひき出すことにもなりかねない。しかし私には、今日の言語論の洪水のなかで、そもそも何故〈意味〉が問題なのかに関して、この予備了解が充分明確にとりつけられているようには思えない。<BR>〈意味〉が何故に問題概念なのか、私がそれに問題を感じるのは、つぎの点においてである。つまり、科学的諸概念が有しているところの意味が、科学理論によって説明さるべきものとして現われてこないで、かえって科学的認識の前提要件となっているように見えるということ、換言すれば、〈意味〉が所与たる性格をもった "現象" としてではなく、認識主観たる "私" の作用 (act) と不可分の相関関係にある何かとして、科学に対して先駆性をもち、それゆえ、科学がそれを説明しようとすれば、悪循環にひき込まれるかも知れぬという危惧をいだかせるものに見えるという点においてである。そして〈意味〉のこのような存在の仕方が、まさにそのゆえに、科学の不完全性を露見せしめるのではないかという点においてである。<BR>〈意味〉が哲学的問題として現われてくる場面は、むろん上述のような場合だけではないが、さし当ってこの小論ではその点に一つの問題があることを承認して貰えるような議論を、〈意味〉の心理学的定義を批判するという形で抉り出してみたい。そして、ここで〈意味〉の心理学的定義というのは、ラッセルの場合を指している。またそれの批判としてはヴィトゲンシュタインをとりあげる。<BR>予め粗略な論点提示を行なうなら、ほぼつぎのようになろう。もし〈意味〉が "心的" なものであるなら、そしてそれが "心的状態 " とか "心的現象" とかいう具合に規定しうるものであるなら、それは、心理学的・生理学的に特定される諸条件の結果たる、記述され描写さるべき対象としての"状態" ないし"現象"として説明されることになる。それゆえ上述の科学に対して先駆性を有するものとしての、科学の不完全性を示すものとしての〈意味〉の問題は、一向に落着しない。したがって私には、〈意味〉の心理学的定義は、〈意味〉がどうでもよい問題である場面で与えられているように思われる。<BR>そこで、ラッセルの場合を検討してみよう。

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