著者
藤田 晋吾
出版者
筑波大学哲学・思想学系
雑誌
哲学・思想論集 (ISSN:02867648)
巻号頁・発行日
no.27, pp.233-248, 2002-03-25

はじめに たんなるアナロジーの域を出ないが、マルクスの『資本論』に対するスラッファの『商品による商品の生産』の関係は、ホワイトヘッド=ラッセルの『数学原理』に対するウィトゲンシュタインの『論理哲学論婚』になぞらえることができる。 ...
著者
藤田 晋吾
出版者
流通経済大学
雑誌
流通經濟大學論集 (ISSN:03850854)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.1-17, 2008-07
著者
藤田晋吾著
出版者
多賀出版
巻号頁・発行日
1991
著者
今井 知正 中村 秀吉 (1985) 丹治 信春 野家 啓一 村田 純一 大庭 健 藤田 晋吾 土屋 俊 長岡 亮介
出版者
千葉大学
雑誌
総合研究(A)
巻号頁・発行日
1985

われわれの研究課題は「現代科学哲学における実在論と反実在論」であったが, われわれは三年間の研究を通じ, 個別的な論点はともかく, この研究課題についての次のような全体的な概観を得ることができた.レーニンの『唯物論と経験批判論』を今世紀の実在論のひとつの出発点として取り上げることができる. 彼は「宇宙は人間が存在する前から存在していた」「人間は脳なしで思考することはできない」という二命題を不可疑とみて, 観念論に対する唯物論を擁護した. しかし, フレーゲとウィトゲンシュタインに端を発する論理的実証主義の言語論的展開は言語を哲学の中心に据えることによって, 〈物質-精神〉の枠組をたんなるひとつの哲学問題としての地位にまで引き下げたのである. 超越的実在を語ることも超越的観念を語ることもわれわれに理解可能な言語を越えることであるから, 従来の実在論と観念論の対立は無意味となった. だが, 論理実証主義の言語論的展開もまた不徹底をまぬかれなかった. そしてタメットが二値原理を基準にして実在論と反実在論を定式化したときにはじめて〈物質-精神〉の枠組自体が撤去され, それに代わって古典論理と直観主義論理の対立が実在論論争の全面に現われてきた. 彼は, われわれの言語の論理を二値原理の貫徹する古典論理であるとすることに疑問を提起し, 二値原理を保持する実在論は幻影ではないかと主張した. 要するに, 〈物質-精神〉の枠組が〈世界-言語〉の枠組に取って替わられたとき, 実在論は劣勢に回ったのである. ダメットの提起した論点はなお検討に値する点を多く含んでいるが, 一言でいってわれわれは, 実在論と反実在論の対立の根本問題が指示の理論における言語の役割と言語理解の問題にあると結論することができる. そしてこれはまたわれわれの研究の次の課題でもあるのである.
著者
藤田 晋吾
出版者
流通経済大学
雑誌
流通経済大学論集 (ISSN:03850854)
巻号頁・発行日
vol.42, no.4, pp.415-436, 2008-03
著者
藤田 晋吾
出版者
筑波大学
雑誌
哲学・思想論集 (ISSN:02867648)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.233-248, 2001

はじめに たんなるアナロジーの域を出ないが、マルクスの『資本論』に対するスラッファの『商品による商品の生産』の関係は、ホワイトヘッド=ラッセルの『数学原理』に対するウィトゲンシュタインの『論理哲学論婚』になぞらえることができる。 ...
著者
藤田 晋吾
出版者
The Philosophical Association of Japan
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
no.23, pp.85-96, 1973

言語における語の〈意味〉、一般に記号の〈意味〉とは何かという問題は、種々の仕方で答えられようけれども、そもそも何故〈意味〉が問題となるのかということが予め了解されていないと、的はずれの議論をひき出すことにもなりかねない。しかし私には、今日の言語論の洪水のなかで、そもそも何故〈意味〉が問題なのかに関して、この予備了解が充分明確にとりつけられているようには思えない。<BR>〈意味〉が何故に問題概念なのか、私がそれに問題を感じるのは、つぎの点においてである。つまり、科学的諸概念が有しているところの意味が、科学理論によって説明さるべきものとして現われてこないで、かえって科学的認識の前提要件となっているように見えるということ、換言すれば、〈意味〉が所与たる性格をもった "現象" としてではなく、認識主観たる "私" の作用 (act) と不可分の相関関係にある何かとして、科学に対して先駆性をもち、それゆえ、科学がそれを説明しようとすれば、悪循環にひき込まれるかも知れぬという危惧をいだかせるものに見えるという点においてである。そして〈意味〉のこのような存在の仕方が、まさにそのゆえに、科学の不完全性を露見せしめるのではないかという点においてである。<BR>〈意味〉が哲学的問題として現われてくる場面は、むろん上述のような場合だけではないが、さし当ってこの小論ではその点に一つの問題があることを承認して貰えるような議論を、〈意味〉の心理学的定義を批判するという形で抉り出してみたい。そして、ここで〈意味〉の心理学的定義というのは、ラッセルの場合を指している。またそれの批判としてはヴィトゲンシュタインをとりあげる。<BR>予め粗略な論点提示を行なうなら、ほぼつぎのようになろう。もし〈意味〉が "心的" なものであるなら、そしてそれが "心的状態 " とか "心的現象" とかいう具合に規定しうるものであるなら、それは、心理学的・生理学的に特定される諸条件の結果たる、記述され描写さるべき対象としての"状態" ないし"現象"として説明されることになる。それゆえ上述の科学に対して先駆性を有するものとしての、科学の不完全性を示すものとしての〈意味〉の問題は、一向に落着しない。したがって私には、〈意味〉の心理学的定義は、〈意味〉がどうでもよい問題である場面で与えられているように思われる。<BR>そこで、ラッセルの場合を検討してみよう。