- 著者
-
高尾 将幸
- 出版者
- 日本スポーツ社会学会
- 雑誌
- スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
- 巻号頁・発行日
- vol.14, pp.59-70,121, 2006
〈身体〉が権力の対象となることを、近代への転換のメルクマールとしたのは、他ならぬミシェル・フーコーの功績だった。体育・スポーツもまた、彼の指摘する規律=訓練権力の一端を、国家の制度的教育として担ってきたのだった。しかしフーコーが切り開いた〈身体〉の政治技術に関する議論は、抽象的なものに終始するのではなく、近年の政策的動向や人々の実践を踏まえたうえで再考される必要があるのではないだろうか。こうした問題意識から、本稿では「健康」とスポーツが交差する地点として高齢者の健康増進施策における事例調査を行った。健康増進施策から誕生したT会の人々は、単に健康不安に煽られ、メディアの提示する公準や理想的な「健康」観を追い求めているのではなかった。そこでは、参加者の暮らす地域の歴史性や構造的要因が存在し、それは同時に参加を規定する要因ともなっていた。また、〈身体〉に病や「老い」を生きる彼らは、同時に教室に「楽しみ」を見出していた。薄れていった共同性への郷愁、自らの〈身体〉をお互いに確認しあう場として運動教室が存在していたのである。しかし、それは同時に彼らの「隠す」という行為と表裏の関係にあった。そして、こうした人々の実践が、現在の政策的動向を支えていくことを示した。結論として、〈身体〉の政治についての視角として、フーコーの提示した「生-権力」論を敷衍させつつも、変動する政策的動向と、それを支えていく人々の歴史や関係性の記述から再考することの必要性を論じた。