- 著者
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片平 博文
- 出版者
- 人文地理学会
- 雑誌
- 人文地理学会大会 研究発表要旨
- 巻号頁・発行日
- vol.2005, pp.20, 2005
『日本後紀』以降の六国史や『小右記』『権記』『殿暦』などの公家の日記等によれば、平安時代を通じて、平安京は数多くの洪水に見舞われてきたことがわかる。これらの史料類から把握できる洪水の多くは、「都城両河洪水」などの記述からも明らかなように、東の賀茂川や西の桂川が溢れたことによって生じたものと考えられる。洪水の中には、賀茂川と桂川とが同時に溢れたケースや、賀茂川が溢れることによって発生したケースなどがある。ところが、頻繁に平安京を襲った洪水の中には、賀茂川や桂川以外の河川によって引き起こされたと考えられるケースも認められる。このような洪水は、天安2年(858)5月のほか、長和4年(1015)7月、寛徳3年(1046)5月、永久元年(1113)8月、長承3年(1134)5月などの記述にもみられ、東堀川や西洞院川などの小河川が、11_から_12世紀になってもしばしば溢れていたことがわかる。 これら小河川から溢れた水は、どこから来たのだろうか?それを解く手がかりとして、『日本三代実録』貞観16年(874)8月の記事が注目される。そこには、台風と思われる大風雨によって賀茂川・桂川などが溢れ、内裏や京内に甚大な被害の出たことが記されている。京外でも、與渡の渡口や山崎橋付近に大きな被害が出たことが知られる。注目すべきはそれに加えて、平安京の北部にあたる栗栖野(西賀茂)や鷹峯付近の被害状況がとりわけ具体的に記述されているということである。この記事からは、貞観13年(871)の大雨や同16年の大風雨によって、栗栖野や鷹峯付近は大被害を受け、しかも同時に京内も橋が流出するほどの被害が出ている。この事実は、両地域の被害に関連のあることを示唆するものと考えられる。以上の分析を受けて史料類を検討した結果、栗栖野・鷹峯付近と左京の小河川とを結んでいたと考えられる水系の存在が確認された。