- 著者
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益田 理広
- 出版者
- 公益社団法人 日本地理学会
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- vol.2015, 2015
1.研究の背景と目的 地理学という分野に冠された「地理」なる語が,五経の第一である「易経」,詳しく言えば,古代に記された「周易」本文に対する孔子の注釈である「十翼」中の一篇「繋辭上傳」に由来することは,漢字文化圏において著されたいくつもの地理学史や事典にも明記された,周知の事実である.しかし,その「地理」はいかなる意味を持つのか,何故地理学の語源となり得たのか,といった概念上の問題については,余り深く注視されてはこなかった.確かに,「繋辭上傳」の本文には「仰以觀於天文,俯以察於地理」とあるのみで,そこからは「天文」と対置されていること,「俯」して「察」るという認識の対象となっていることが読み取られるばかりである.それ以上の分析は,「地」「理」の二字の意味を知るよりほかはないであろう.「土地ないしは台地のすじめであり,大地における様々な状態つまり「ありよう」を指したもの」(海野,2004:44)「地の理(地上の山川で生み出される大理石や瑪瑙の筋目のような形状)」(『人文地理学事典』,2013:66)といった定義はまさに字義に依っている.辻田(1971:52,55)も「易経でいう地理をただちに今日的意味で理解するのはやや早計」としながらも,「古典ギリシャ時代の造語であるゲオーグラフィアに相当する地理という文字」とする.また,海野は後世における「地理」の使用例から,客観的な地誌的記述と卜占的な風水的記述をあわせ持った,曖昧模糊たる概念とも述べている. それでは,この「地理」なる語は古代より明確に定義されぬままであったのであろうか.実際には,「地理」の語義は「周易」に施された無数の注釈において様々に論じられてきた.そしてその注釈によって「地理」を含む経典中の語が理解されていたのも明らかであり,漢字文化圏においてgeographyが「風土記」ではなく「地理学」と訳された要因もこうした注釈書に求められよう. 中国の研究においてはそれが強く意識されており,胡・江(1995)は「周易」の注釈者は三千を超えるとまで言い,「地理」についても孔頴達の「地有山川原隰,各有條理,故稱理也」という注に従いながら「大地とその上に存在する山河や動植物を支配する法則」を「地理」の語義としている.また,于(1990)や『中国古代地理学史』(1984)もやはり孔頴達に従っている.ただし,孔頴達の注は唐代に集成された古典的なものであり,「地理」に付された限定的な意味を示すものに過ぎない.仮にも現代の「地理学」の語源である「地理」概念を分析するのであれば,その学史的な淵源に遡る必要があろう.そしてその淵源は少なくとも合理的な朱子学的教養を備えた江戸時代の儒学者に求められる(辻田,1971).「地理学」なる語も,西洋地理書の翻訳も,皆このような文化的基礎の上でなされたものなのである.従って,現代に受け継がれた「地理学」の元来の概念範囲は,この朱子学を代表とする思弁的儒学である宋学における「地理」の語義を把握しない限りは分明たりえないであろう.以上より,本研究では,宋学における「地理」概念の闡明を目的として,宋代までに撰された「周易」注釈書の分析を行う. 2.研究方法 主として『景印 文淵閣四庫全書』(1983) 經部易類に収録されたテキストを対象とし,それらの典籍に見出される「地理」に関わる定義を分析する.また,上述のように「地理」は「天文」と対をなす語であるため,この「天文」の定義に関しても同様に分析する.なお,テキストは宋代のものを中心とし,その背景となる漢唐の注釈も対象とする. 3.研究結果 「天文」および「地理」なる語に対する古い注釈としては王充の論衡・自紀篇の「天有日月星辰謂之文,地有山川陵谷謂之理」および班固の漢書・郊祀志の「三光,天文也…山川,地理也」がある.周易注釈書としては上述の孔頴達の疏が最も古く,これは明らかに上記二者や韓康伯の系譜にあり,「天文地理」は天上地上の物体間の秩序を表すに過ぎない.ところが,宋に入ると,蘇軾は『東坡易傳』において,天文地理を「此與形象變化一也」と注し,陰陽が一氣であることであるという唯物論的な解釈を行い,朱熹は「天文則有晝夜上下,地理則有南北高深」と一種の時空間として定義するなど,概念の抽象化が進んでいく. 【文献】 于希賢 1990.『中国古代地理学史略』.河北科学技術出社.海野一隆 2003.『東洋地理学史研究・大陸編』 .清文堂. 胡欣・江小羣 1995.『中國地理學史』. 文津出版. 人文地理学会編 2013.『人文地理学事典』.丸善書店. 中国科学院自然科学史研究所地学史組 主編 1984.『中国古代地理学史』. 科学出版社. 辻田右左男 1971.『日本近世の地理学』.柳原書店.