- 著者
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古賀 康士
- 出版者
- 公益財団法人 史学会
- 雑誌
- 史学雑誌 (ISSN:00182478)
- 巻号頁・発行日
- vol.125, no.1, pp.42-68, 2016
本稿の課題は、近世初期細川小倉藩の鋳銭事業の全体像を再構成し、その歴史的位置づけを明らかにすることである。小倉藩による鋳銭事業は短期間で頓挫したものの、幕府の寛永通宝の導入に先立つ大名領主の本格的な銭貨鋳造として、早くからその歴史的意義が注目されてきた。だが、既存の研究では新銭の流通開始直後に現れる「にせ銭」と不良銭の撰銭の問題などを始め、鋳銭事業の全体像はなお未解明であった。そこで本稿では、(一)新銭の鋳銭体制の復原、(二)新銭を含む銭貨の流通形態の解明、(三)新銭のベトナム輸出の実態分析という三つの分析課題につき検討した。<br>第一の新銭の鋳銭体制については、複数の銭屋による競争的な請負制が明らかとなった。銭屋の操業は分業による一元化がなされず、各自の採算性に基づいて鋳銭が行われた。そこでは新銭の競売による価格圧力も存在したため、低品質な銭貨が大量生産され、不良銭の撰銭現象が惹起した。これに対応し、小倉藩は新銭一貫文=銀五匁とする公定の固定相場制を導入し、価格競争的な鋳銭体制を修正した。<br>第二の新銭の流通形態については、流通開始直後の「にせ銭」の問題から、小倉藩が新銭を公式の銭貨とする専一流通策を採用したこと、また近世初頭の中国西部・九州北部において、新銭と同等ないしそれ以下の低品質な銭貨が地域的貨幣として広く鋳造・流通したことを導出した。<br>第三の新銭のベトナム輸出に関しては、ベトナム輸出の可能性が鋳銭事業の廃止を小倉藩に決定させる主要因となったことを示した。また日本では低品質な銭貨として位置づけられた新銭も、ベトナムでは精銭範疇に属する「大銭」として認識されたことが確認された。<br>以上の結論からは、寛永通宝の「銭座」体制の歴史的前提となる鋳銭体制の組織面・経営面での革新や初期藩札との貨幣政策上の類似性といった問題が新たな課題として示唆された。