著者
池田 勇太
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.2, pp.61-79, 2016

東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター原資料部が所蔵する「安場保和関係文書」マイクロフィルム中にある「政体」と題される史料は、政体書の草案であると考えられる。慶応四年三月に起草され、執筆者は副島種臣と推定される。ただし、なぜ安場家文書中にこの史料があるのかは不明である。本稿では政体書作成の経緯を確認したのち、他の草案や政体書などとの条文比較を行い、本史料が政体書の草案であることを論じた。<br>本史料からは、明治政府がその最初の段階において、西洋の立憲制を参照しながら国民規模の政治参加にもとづく政治体制をつくろうとしていたことがわかる。また天皇が二十四歳になるまでは名代を置くことや、神祇官が制度のなかに書き込まれていないことなど、維新政権の性格を考えるうえで重要な構想が少なからず見られる。ただし「政体」は案としては廃棄され、もう一つの草案である「規律」を下敷きに政体書が書かれ、その過程で「政体」も参照されるという位置に置かれたと見られる。<br>従来、政体書は発布直後から議政官・行政官の兼任が行われて議政・行政を分離する原則に矛盾し、議政官下局も有名無実の議事機関となっていた状況が指摘されてきたが、「政体」に書かれた議会制度構想を念頭に置くと、政体書が高邁な理想をかかげつつも、草案より現実に即したかたちで書かれていたことがわかる。また、戊辰戦争で国内の形勢がほぼ固まった慶応四年冬以降、明治政府によって試みられた議会制度の導入についても、「政体」の影響が考えられる。明治政府発足当初の立憲政体導入の試みについて、再考を迫る史料と言えるだろう。

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明治38年1月31日、副島種臣が死去。幕末の佐賀藩出身で、兄の枝吉神陽が主宰した義祭同盟に参加した。明治期に外務卿、内務大臣などを歴任。池田勇太「史料紹介 「政体」」(『史学雑誌』125-2、2016年)は、政体書の草稿と思われる史料を分析し、副島が書いたものと推測。 https://t.co/GPw3q1YWlF

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