著者
中立 悠紀
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.7, pp.1-26, 2019

本稿は、BC級戦犯が靖国神社に合祀されるまでの経緯を、戦犯釈放運動の旗振り役でもあった復員(ふくいん)官署(かんしょ)法務(ほうむ)調査(ちょうさ)部門(ぶもん)、及びその周辺政治勢力(戦争(せんそう)受刑者(じゅけいしゃ)世話会(せわかい)、白菊(しらぎく)遺族会(いぞくかい))の動向から明らかにする。<br>復員官署法務調査部門(以下「法調(ほうちょう)」と略記)とは、旧軍の後継機関である復員官署内で戦犯裁判業務を担当した部署である。多数の旧軍人事務官から構成され、法調は戦犯家族の世話も行い、戦犯を合祀する際に必要であった戦犯の名簿も所持していた。<br>講和条約発効直前の一九五二年二月に、法調は戦犯合祀を企図し始め、密接な協力関係下にあった戦争受刑者世話会とともに合祀を推進した。そして援護法と恩給法の対象に戦犯・戦犯遺家族が組み込まれると、一九五四年に靖国神社は世話会に対して、「適当の時機に個人詮議」という留保付きで戦犯を将来合祀する姿勢を示した。ただし、一九五七年秋の段階でも、靖国は世論に配慮して合祀の時期は慎重を期していた。<br>ところがそのような状況にもかかわらず、一部新聞がこれを報道してしまい、世論を警戒した靖国は戦犯合祀そのものに消極的になってしまった。厚生省引揚援護局・法調側は靖国に配慮し、新聞報道で特に問題となっていた東條英機らA級戦犯とBC級戦犯を分離させ、BC級戦犯の先行合祀を要望した。しかし一九五八年の段階で、世論の反発を気にするあまりにBC級の合祀すらも慎重になってしまった靖国を、援護局側は説得するのに約一年を要した。<br>しかし、最後に靖国側は合祀要請を受け入れ、法調が調製した祭神名標に基づき、一九五九年にBC級戦犯の大部分を合祀したのである。<br>本稿を通じて、ポツダム宣言受諾後に解体された旧帝国陸海軍の佐官級官僚が、靖国への戦犯合祀において担った役割を明らかにする。

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