著者
中立 悠紀
出版者
九州大学
雑誌
若手研究
巻号頁・発行日
2021-03-01

本研究は、1952年のサンフランシスコ講和条約発効後における、戦争犯罪者の釈放過程を解明する。特に、①当時、日本国内で盛り上がっていた戦犯釈放運動が、関係国との外交交渉に与えた影響を分析する。また②主にアメリカとの懸案事項であった再軍備・MSA協定の締結に、戦犯釈放問題がどのように関わっていたのかも考察する。この二つの分析は、日本、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの外交史料などを用いて行う。
著者
中立 悠紀
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.7, pp.1-26, 2019 (Released:2021-09-02)

本稿は、BC級戦犯が靖国神社に合祀されるまでの経緯を、戦犯釈放運動の旗振り役でもあった復員(ふくいん)官署(かんしょ)法務(ほうむ)調査(ちょうさ)部門(ぶもん)、及びその周辺政治勢力(戦争(せんそう)受刑者(じゅけいしゃ)世話会(せわかい)、白菊(しらぎく)遺族会(いぞくかい))の動向から明らかにする。 復員官署法務調査部門(以下「法調(ほうちょう)」と略記)とは、旧軍の後継機関である復員官署内で戦犯裁判業務を担当した部署である。多数の旧軍人事務官から構成され、法調は戦犯家族の世話も行い、戦犯を合祀する際に必要であった戦犯の名簿も所持していた。 講和条約発効直前の一九五二年二月に、法調は戦犯合祀を企図し始め、密接な協力関係下にあった戦争受刑者世話会とともに合祀を推進した。そして援護法と恩給法の対象に戦犯・戦犯遺家族が組み込まれると、一九五四年に靖国神社は世話会に対して、「適当の時機に個人詮議」という留保付きで戦犯を将来合祀する姿勢を示した。ただし、一九五七年秋の段階でも、靖国は世論に配慮して合祀の時期は慎重を期していた。 ところがそのような状況にもかかわらず、一部新聞がこれを報道してしまい、世論を警戒した靖国は戦犯合祀そのものに消極的になってしまった。厚生省引揚援護局・法調側は靖国に配慮し、新聞報道で特に問題となっていた東條英機らA級戦犯とBC級戦犯を分離させ、BC級戦犯の先行合祀を要望した。しかし一九五八年の段階で、世論の反発を気にするあまりにBC級の合祀すらも慎重になってしまった靖国を、援護局側は説得するのに約一年を要した。 しかし、最後に靖国側は合祀要請を受け入れ、法調が調製した祭神名標に基づき、一九五九年にBC級戦犯の大部分を合祀したのである。 本稿を通じて、ポツダム宣言受諾後に解体された旧帝国陸海軍の佐官級官僚が、靖国への戦犯合祀において担った役割を明らかにする。
著者
中立 悠紀
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.128, no.7, pp.1-26, 2019

本稿は、BC級戦犯が靖国神社に合祀されるまでの経緯を、戦犯釈放運動の旗振り役でもあった復員(ふくいん)官署(かんしょ)法務(ほうむ)調査(ちょうさ)部門(ぶもん)、及びその周辺政治勢力(戦争(せんそう)受刑者(じゅけいしゃ)世話会(せわかい)、白菊(しらぎく)遺族会(いぞくかい))の動向から明らかにする。<br>復員官署法務調査部門(以下「法調(ほうちょう)」と略記)とは、旧軍の後継機関である復員官署内で戦犯裁判業務を担当した部署である。多数の旧軍人事務官から構成され、法調は戦犯家族の世話も行い、戦犯を合祀する際に必要であった戦犯の名簿も所持していた。<br>講和条約発効直前の一九五二年二月に、法調は戦犯合祀を企図し始め、密接な協力関係下にあった戦争受刑者世話会とともに合祀を推進した。そして援護法と恩給法の対象に戦犯・戦犯遺家族が組み込まれると、一九五四年に靖国神社は世話会に対して、「適当の時機に個人詮議」という留保付きで戦犯を将来合祀する姿勢を示した。ただし、一九五七年秋の段階でも、靖国は世論に配慮して合祀の時期は慎重を期していた。<br>ところがそのような状況にもかかわらず、一部新聞がこれを報道してしまい、世論を警戒した靖国は戦犯合祀そのものに消極的になってしまった。厚生省引揚援護局・法調側は靖国に配慮し、新聞報道で特に問題となっていた東條英機らA級戦犯とBC級戦犯を分離させ、BC級戦犯の先行合祀を要望した。しかし一九五八年の段階で、世論の反発を気にするあまりにBC級の合祀すらも慎重になってしまった靖国を、援護局側は説得するのに約一年を要した。<br>しかし、最後に靖国側は合祀要請を受け入れ、法調が調製した祭神名標に基づき、一九五九年にBC級戦犯の大部分を合祀したのである。<br>本稿を通じて、ポツダム宣言受諾後に解体された旧帝国陸海軍の佐官級官僚が、靖国への戦犯合祀において担った役割を明らかにする。
著者
中立 悠紀
出版者
九州大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2015-04-24

本年度は大きく分けて二つの事柄に関して研究してきた。一つは1952年に起きた戦犯釈放運動が、どのようなメディア環境下で行われていたのかということを検討してみた。これは当時の新聞(全国紙と全ての県紙)の社説・論説、掲載紹介された投書を分析することによって、当時の報道の様相と、世論の動向を考察した。また当時よく読まれていた雑誌の上位15誌が戦犯釈放問題と釈放運動をどのように評価し報道していたのかも分析した。分析の結果、新聞の大多数が戦犯釈放運動を支持していたことが分かった。ただし当時の新聞は少なくとも BC 級戦犯を犠牲者とし、この釈放推進を概ね支持していたが、一方で A 級戦犯については依然批判的に見ていた新聞社も多かったし、紙面に掲載された投書でも戦争指導者(A級戦犯)の責任を別個のものとして論じるものがいた。雑誌については戦犯に対して同情的な記事が多数であったことが確認された。もう一つは戦犯が靖国神社に合祀された過程について研究してきた。戦犯釈放運動の中心的機関であった復員官署法務調査部門が、実は靖国神社に戦犯を合祀しようとしていた組織でもあったことが分かった。法務調査部門は 1952 年 4 月の講和条約発効直前から戦犯の合祀を企図し始め、靖国の事実上の分社・護国神社への先行合祀など、靖国合祀のための布石を打っていた。戦争受刑者世話会も法務調査部門と共に合祀を目指し、1954 年に靖国側から将来合祀する旨を引き出した。そして 1958 年 より法務調査部門は靖国神社との戦犯合祀の折衝に実際に臨んだ。しかし筑波藤麿靖国神社宮司は A 級戦犯の合祀に関しては慎重姿勢であった。そのため A 級戦犯は合祀対象から脱落したが、靖国は法務調査部門の要請を受け入れ、1959 年に法務調査部門が調製した祭神名票に基づき、大部分の BC 級戦犯を靖国に合祀した。