著者
ヨトヴァ マリア
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科
雑誌
総研大文化科学研究 (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.8, pp.159-176, 2012-03

本論文の目的はブルガリアのポスト社会主義期におけるヨーグルトの表象について、トラン地域の博物館展示を事例として、その特徴を明らかにすることである。また社会主義とその崩壊、EU加盟という時代の荒波を経験したブルガリアが、ヨーグルトに対してどのような意味付けをおこなっているのかを考察することである。 もともと、トラン市のヨーグルト博物館は地域振興を目的として2006年に設立された。しかし、展示内容としては、地域の乳食文化の紹介ではなく、"ブルガリアヨーグルト"の輝かしい歴史を全面に押し出し、国際舞台におけるその高い評価の主張を試みているようにみえる。また、本博物館で語られるヨーグルトの歴史からは、社会主義という過去は完全に消去されており、現代社会における「健康食品」や「長寿食」としての価値が強調されている。結果的に、本博物館の展示からは、ブルガリアが西欧と同様の価値観を共有しており、乳酸菌研究の発展や現代社会の健康的な生活に大きく貢献していることが伝えられている。このような表象は先行研究が示してきたような旧ソ連圏における「西欧製」(資本主義的味覚)という象徴的価値の低下や「ソビエト製」(われわれの味)がもたらす郷愁的価値の上昇といった食の表象とは明らかに異なっている。 東欧諸国の食を取り上げた文化人類学的研究は、民主化以降の自国の食の再評価について社会主義への郷愁や資本主義に対する失意から生じるものとし、それをナショナリズム的な反応や「オスタルジア現象」(東へのノスタルジア)と捉えてきた。しかし、ブルガリアにおけるヨーグルトの表象の事例からは、社会主義・資本主義、西欧・東欧を問わず、「長寿」や「健康」のような人間の普遍的価値が全面的に押しだされていることがわかる。そして、ヨーグルト博物館の展示においても、社会制度や時代を超えた「長寿食」としての"ブルガリアヨーグルト"の姿が浮かび上がってくる。 そこで、本稿はブルガリアの博物館展示におけるヨーグルトの表象を「ナショナリズム的な反応」や「オスタルジア」ではなく、自己肯定化への意識的な試みとして捉える。また、博物館展示を第三者の視点から「評価」するのではなく、それを事例として民主化以降のブルガリアにおいてヨーグルトがいかに自己規定のために重要な存在であるかを示す。Focusing on the case study of the Yogurt Museum in the region of Tran, this paper aims to investigate how dairy food culture is represented in post-socialist Bulgaria. It also considers the cultural meaning of yogurt in the light of the dramatic changes after the collapse of the socialist system. The Yogurt Museum was originally established in 2006 for the purpose of tourism development in the region of Tran. However, looking at the museum exhibition, it becomes clear that its aim is rather to highlight the international success and glorious past of "Bulgarian yogurt" rather than to show the traditional dairy culture of the local people. What is more, socialism, which inflicted dramatic changes on dairy farming and overall life in the country, seems to be erased from the yogurt history now told by the museum exhibition. Instead, it emphasizes the paramount importance of yogurt as food which can support the lives of modern people, bringing them "health" and "longevity". Thus, indirectly, but quite successfully, the exhibition conveys the notion that Bulgaria not only shares the same values as the European community but is also an important part of Europe, contributing significantly to its prosperity. This attempt to erase the socialist past from the history of a national food product such as yogurt is a tendency that distinguishes Bulgaria from other post-socialist countries where, as previous studies have shown, most people feel nostalgia for national (or "socialist") food and disappointment with foreign (or "capitalist") food. They express these feelings of nostalgia and disappointment by denouncing foreign (global) producers and giving special value to national (local) manufacturers. Such persistent preference for the food of one's own country has been defined as "nationalism" or "Ostalgia" (i.e. nostalgia for the East) in post-socialist anthropological research. However, the museum exhibition dedicated to Bulgarian yogurt, which lays more stress on such universal human values as "health" and "longevity" rather than the national dairy traditions or the grandeur of the Bulgarian dairy industry during socialism, shows quite a different picture. In this sense the museum representation of "Bulgarian yogurt" cannot be considered as "food nationalism" or some form of nostalgia for "socialist food". It is rather an attempt to build a positive image of the national self in times of radical social and economic change. The case of "Bulgarian yogurt" comes to show how a traditional food product can provide an alternative form of self-presentation, thus assisting the transition of a country from state socialism to democracy and a market economy.
著者
平田 昌弘 ヨトヴァ マリア 内田 健治 元島 英雅
出版者
日本酪農科学会
雑誌
ミルクサイエンス (ISSN:13430289)
巻号頁・発行日
vol.59, no.3, pp.237-253, 2010 (Released:2014-03-15)
参考文献数
19
被引用文献数
1

本稿では,ブルガリア南西部の乳加工体系とその特徴を明らかにし,バルカン半島のブルガリアにおける乳加工発達史を論考した。ブルガリアの乳加工体系は,発酵乳系列群と凝固剤使用系列群の乳加工技術が確認された。ブルガリアの発酵乳系列群は西アジア由来の乳加工技術である可能性が極めて高く,冷涼性ゆえに水分含量が比較的高くても保存が可能なため,酸乳やバターの段階で加工が終了してしまうように変遷していた。塩水漬けにしてチーズの熟成をおこなうバルカン半島ブルガリアのチーズ加工技術は,熟成をおこなわない西アジアと熟成に特化したヨーロッパのちょうど中間的な位置にあり,ヨーロッパのチーズ加工の土台を形成した可能性が高いと考えられた。更に,レンネット利用がチーズ加工にではなくチャーニングによるバター加工用の生乳凝固に利用されていることから,もともとのレンネット利用は先ずバター加工に用いられ,後にバター加工からチーズ加工へと転用されていった可能性が高いと考えられた。これらのことから,レンネット利用によるチーズ加工の起原地の一候補地がバルカン半島であることが示唆された。このように,ブルガリアの乳文化は人類の乳加工史において極めて重要な乳加工技術を今日に伝えている。これらのブルガリアの重要な乳加工技術も,社会主義体制への移行・崩壊,EU 加盟を通じて,経営的に成り立たず,多くが消え去ろうとしている。ブルガリアは,EU という巨大経済圏に加盟したまさに今,自国の農業生産や文化の継承のあり方について問われている。