著者
ルイック ペトラ
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.71, no.599, pp.157-163, 2006

本論文は、水谷武彦のドイツ及びバウハウス留学を水谷著のバウハウスに関する論文及び本来のバウハウスのカリキュラムを基に再現する読みである。水谷は、バウハウスに初めて留学した日本人である。そのため、日本において最初に詳細なバウハウス紹介を行った人であり、日本のバウハウス受容における重要人物であると考えられる。それにも拘わらず、現在までに、水谷に関する研究は非常に少ない。その原因の一つに、水谷が残した論文が少なかったことが挙げられよう。しかし、日本のバウハウス理念の受容と展開を研究するためには、水谷武彦の寄与を見逃すことはできない。水谷は1927年4月から1929年4月までバウハウスに在籍し、ワルター・グロピウス及びハンネス・マイヤーの下で、各一年ずつ、勉強した。水谷の論文で解介されるバウハウスのカリキュラムはマイヤーによるものと推測できるため、マイヤーの教育課程に従うと、水谷は一年ではなく半年間の基礎教育を受けたことが分かる。その中で、特にアルベルス及びカンディンスキーの授業が水谷に多大な影響を与えたようである。そして、基礎教育を修めた後、水谷は一年間家具工房で習った。家具工房での教育に関する彼の論文は存在しないが、ブロイヤー及びアルベルスの教育を、各半年ずつ受けたことは明らかである。さらに彼は、家具工房での修業と同時に、モホリ=ナギ、シュレンマー及びクレーの論理的な教育を受けた。水谷著の論文の中では、特にモホリ=ナギ及びシュレンマーのことが詳しく説明されており、彼らの授業が水谷にとって刺激的であったと思われる。そして、水谷は、最後の半年を建築コースで過ごし、主にマルト・スタムの指導を受けた。スタムの授業以外にどのようなクラスに参加したかは、資料が存在しないために不明である。しかし、帰国後に発表した水谷による建築論から、彼がグロピウス、マイヤー及びスタムが提案したドイツ住宅問題に対する解決法に強い関心を持ったことが分かる。水谷のレポートをバウハウスのカリキュラムと比較検討することで、最終的に、彼が二年間バウハウスに留学し、卒業せずに日本に帰ったことが明確になった。水谷著の論文は、グロピウス及びマイヤーの下で行われたバウハウス学習過程を、日本で初めて詳細に解介した貴重な資料であると思われる。従って、本稿は、水谷自身がその後日本で発展させた教育理念に関する研究の出発点となるであろう。
著者
ルイック ペトラ
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会北陸支部研究報告集 (ISSN:03859622)
巻号頁・発行日
no.48, pp.361-364, 2005-07-10

From 1922 on, many Japanese artists visited the Bauhaus and introduced it in various Japanese magazines. However, these articles were rather superficial descriptions of the Bauhaus. In contrast, Takehiko Mizutani was the first Japanese who studied at the Bauhaus and who experienced the whole range of the Bauhaus, its organization and educational program. Therefore, Mizutani can be seen as a key character for a detailed introduction of the Bauhaus in Japan. This paper aims at reexamining Mizutani's years at the Bauhaus closely to build a basis for further researches.