著者
レヴェント シナン
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.26, pp.123-149, 2011-01-05

本論文の目的は、定期刊行物を資料として分析しながらトルコ共和国初期における、トルコのメディアにおける日本像を解明し、あわせて日土関係を解釈することにある。具体的には日土関係の転換点である1933年から第二次世界大戦が勃発した1939年までトルコ最大の発行部数を誇る日刊紙の一つである『ジュムフリエト』における日本関係記事(事件報・論説など)を検討した。その結果、特に知識人や論説委員が記名で寄稿した論説によると、当時のトルコにおいて日本に対して全く異なる二つの対立する論調の存在を解明することができた。第1はトルコが1923年の建国に際して帝国主義諸国家の支配から独立解放戦争で脱却したという政治イデオロギーに立脚しながら、帝国主義国家である日本によって侵略を受けた中国や東アジア諸国に同情する論調である。ユヌス・ナディ氏、ペヤミ・サファ氏やナディル・ナディ氏はその傾向にあった論説委員である。特に本紙の社説担当記者でもあるユヌス・ナディ氏は日本に対して激しい非難をし、日本の東アジアにおける侵略行動に反対していた。これに対して、第2はムハッレム・フェイズ・トガユ氏やアフメット・アガオグル氏などのパン・トルコ主義者である論説委員が日本の侵略行動を支持する論調である。特にアガオグル氏の論説は好意的な論調の最良の例である。彼は日本の侵略主義を西欧のと比べた上、日本の対外膨張政策を正当化する傾向があった。以上の分析を総括すると、論説委員による個人差はあっても『ジュムフリエト』紙は全体としては欧米のメディアとは異なり、日本に対して偏見予兆をもって編集方針をとることはなかった。すなわち日本に対して親日・反日双方論述によって、同時期の英仏のような反日、独伊のような親日一辺倒の世論形成を行っていなかった。その理由は当時のトルコの政情を反映している。1923年建国以来、トルコは外交より内政を重視し、国内の諸改革推進のために中立的な外交姿勢を堅持した。最終的に、1930年代に汎トルコ主義者らは日本や日本の大陸進出に対して親近感を持ったが、その一方、ケマリスト的なイデオロギーに近い人々は日本に対して批判的であったと言えよう。