著者
二谷 智子
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.75, no.3, pp.313-336, 2009-09-25 (Released:2017-05-24)

近代史では,国民国家論の立場から幕末・明治期コレラ流行時の衛生が検討され,伝染病流行に直面した人々の生活の近代化過程が,民俗・心性・予防言説に焦点を絞って検討されてきたが,他方で,近世医療史の研究が進み,その歴史像に批判も出されている。本稿は,石川県(現富山県)の地域有力者であった宮林彦九郎家が,1879年コレラ流行時に交わした書簡を分析し,流行下でコレラに対応した人々の具体的な様相と,船主が実践した防疫の有り様を検討して,上述の争点に実証的な裏付けを提供する。船主兼地主の宮林家は,情報ルートを複数持ち,入手した情報を照らし合わせ,冷静かつ客観的に判断して,自己所有船と家族の防疫をした。地域では,地方行政官の意向も入れて地元の防疫活動を自発的に行った。この点には,近世以来の地域有力者による施療との同質性があり,地方行政官もそれを織り込んで,防疫活動を展開した。1879年コレラ流行を経験した宮林家は,地域住民の「智力ノ培養」が今後の重要課題となることを認識し,石川県地方衛生会の設置(1880年7月)より早い,80年1月に自費で新聞縦覧所を開設した。
著者
二谷 智子
出版者
経営史学会
雑誌
経営史学 (ISSN:03869113)
巻号頁・発行日
vol.38, no.3, pp.22-47, 2003-12-25 (Released:2009-11-06)

The purpose of this paper is first to analyze the change in the system that regulated the production and sale of medicine in the latter half of the 19th century and second to make clear how the management of the home distribution system of patent medicines in Toyama changed as its result. This paper examines the case of the Okamoto family, the influential merchant family that owned large tracts of commercial land, and the peddling of patent medicines in Takaoka in the early Meiji era.As a result of the examination, the following point became clear. The merchant in Takaoka financed owners of commercial land to peddle patent medicines. These peddlers lived in villages around Takaoka, and the management of their peddling business changed with the financing from the merchant.By the 1860s, the peddlers in Takaoka were classified into five ranks by income, because several feudal loads had for years forbidden the peddlers from entering their domains. And as a result, this started the division in the management of the business into the sponsor, the chemist's shop, and the peddler in Takaoka. The home distribution system of patent medicines in Takaoka was thus able to adapt to the medical policy of the Meiji government, which regulated both the production and the distribution of patent medicines.
著者
二谷 智子
出版者
社会経済史学会
雑誌
社会経済史学 (ISSN:00380113)
巻号頁・発行日
vol.75, no.3, pp.313-336, 2009

近代史では,国民国家論の立場から幕末・明治期コレラ流行時の衛生が検討され,伝染病流行に直面した人々の生活の近代化過程が,民俗・心性・予防言説に焦点を絞って検討されてきたが,他方で,近世医療史の研究が進み,その歴史像に批判も出されている。本稿は,石川県(現富山県)の地域有力者であった宮林彦九郎家が,1879年コレラ流行時に交わした書簡を分析し,流行下でコレラに対応した人々の具体的な様相と,船主が実践した防疫の有り様を検討して,上述の争点に実証的な裏付けを提供する。船主兼地主の宮林家は,情報ルートを複数持ち,入手した情報を照らし合わせ,冷静かつ客観的に判断して,自己所有船と家族の防疫をした。地域では,地方行政官の意向も入れて地元の防疫活動を自発的に行った。この点には,近世以来の地域有力者による施療との同質性があり,地方行政官もそれを織り込んで,防疫活動を展開した。1879年コレラ流行を経験した宮林家は,地域住民の「智力ノ培養」が今後の重要課題となることを認識し,石川県地方衛生会の設置(1880年7月)より早い,80年1月に自費で新聞縦覧所を開設した。