著者
五十川 伸矢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.46, pp.1-79, 1992-12-25

鋳鉄鋳物は,こわれると地金として再利用されるため,資料数は少ないが,古代・中世の鍋釜について消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の資料を集成した。これらは,羽釜・鍋A・鍋B・鍋C・鍋I・鉄鉢などに大別でき,9世紀~16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,古代には羽釜と鍋Iが存在し,中世を通じて羽釜・鍋A・鍋Cが生産・消費されたが,鍋Bは14世紀に出現し,次第に鍋の主体を占めるにいたるという,器種構成上の変化がある。また,地域によって異なった器種が用いられた。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・鍋A・鍋Bが併用されたが,その他の西日本の各地では,鍋A・鍋Bが主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて鍋Cが主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具も,ここでは鉄仏や鉄鉢のように鋳鉄で製作されることもあった。また,近畿地方の湯立て神事に使われた伝世品の湯釜を,装飾・形態・銘文などによって型式分類すると,河内・大和・山城などの各国の鋳造工人の製品として峻別できた。その流通圏は中世の後半では,一国単位程度の範囲である。こうした鋳鉄鋳物を生産したのは,中世には「鋳物師」と呼ばれる工人であった。鋳造遺跡の調査成果から,銅鉄兼業の生産形態をとるものが多かったことが想定できる。また,生産工房は,古代には製鉄工房に寄生する形態をとるが,中世には鋳物砂の産地周辺に立地する場合が多い。中世後半には都市の周縁に立地するものも現われた。生産に必要な固定資本の大きさから考えて,商業的遍歴はありえても,移動的操業は少なかったものと推定できる。
著者
五十川 伸矢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.46, pp.p1-79, 1992-12

鋳鉄鋳物は,こわれると地金として再利用されるため,資料数は少ないが,古代・中世の鍋釜について消費遺跡出土品・生産遺跡出土鋳型・社寺所蔵伝世品の資料を集成した。これらは,羽釜・鍋A・鍋B・鍋C・鍋I・鉄鉢などに大別でき,9世紀~16世紀の間の各器種の形態変化を検討した。また,古代には羽釜と鍋Iが存在し,中世を通じて羽釜・鍋A・鍋Cが生産・消費されたが,鍋Bは14世紀に出現し,次第に鍋の主体を占めるにいたるという,器種構成上の変化がある。また,地域によって異なった器種が用いられた。まず,畿内を中心とする地方では,羽釜・鍋A・鍋Bが併用されたが,その他の西日本の各地では,鍋A・鍋Bが主要な器種であった。一方,東日本では中世を通じて鍋Cが主要な煮沸形態であり,西日本では青銅で作る仏具も,ここでは鉄仏や鉄鉢のように鋳鉄で製作されることもあった。また,近畿地方の湯立て神事に使われた伝世品の湯釜を,装飾・形態・銘文などによって型式分類すると,河内・大和・山城などの各国の鋳造工人の製品として峻別できた。その流通圏は中世の後半では,一国単位程度の範囲である。こうした鋳鉄鋳物を生産したのは,中世には「鋳物師」と呼ばれる工人であった。鋳造遺跡の調査成果から,銅鉄兼業の生産形態をとるものが多かったことが想定できる。また,生産工房は,古代には製鉄工房に寄生する形態をとるが,中世には鋳物砂の産地周辺に立地する場合が多い。中世後半には都市の周縁に立地するものも現われた。生産に必要な固定資本の大きさから考えて,商業的遍歴はありえても,移動的操業は少なかったものと推定できる。
著者
五十川 伸矢
出版者
古代学協会
雑誌
古代文化 (ISSN:00459232)
巻号頁・発行日
vol.57, no.9, pp.497-500, 2005-09
著者
五十川 伸矢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.68, pp.51-76, 1996-03-29

古代平安京や中世京都とその周辺の葬地となった地域の墓の考古学的資料をもとにして,都市とその周辺における墓の歴史的展開について考えてみたい。平安京では,その京域内に墓を作らせなかったため,その周辺の山野に葬地が次第に形成されていった。古代には天皇や貴族などの人々の墓がみとめられるが,当初は墓参のないものであった。一般庶民は,その遺体を河原に遺棄されるものであったといわれており,墓が作られたとしても簡単なものであったらしい。12世紀にはいって,都市の外周部の葬地には,集団的な墓地が顕在化し,中世的墓制が確立していったとみられる。木棺に伸展葬される形態が主流であり,古代の墓の伝統が続いていた。13世紀にはいると,都市の内部にも墓が作られて,そのなかには,都市が解体して墓地が形成されるのではなく,都市空間を前提として墓地が営まれるものもあった。ここに京域内に墓を作ることを禁じた古代からの伝統はついえた。墓の形態には,土葬では屈葬の木棺があらわれ,火葬骨は各種の蔵骨器に納入された。15世紀には,さらに墓の遺跡が増加し,墓を作りえた人々が増したことがうかがえ,直葬の形態をもつ土壙墓が,ややめだつようである。その背後には葬式仏教化した寺院があり,庶民のあいだにも累代の墓をもち,墓参をおこなう風が成立しつつあったとみてよい。16世紀には政治的に都市再編がおこなわれ,都市の空間設定に変化が生じると,その墓地や火葬場も運命をともにし,移動をよぎなくされるものもあった。こうして,近世・近代へとつながる墓のありかたが定着していった。
著者
五十川 伸矢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.68, pp.51-76, 1996-03

古代平安京や中世京都とその周辺の葬地となった地域の墓の考古学的資料をもとにして,都市とその周辺における墓の歴史的展開について考えてみたい。平安京では,その京域内に墓を作らせなかったため,その周辺の山野に葬地が次第に形成されていった。古代には天皇や貴族などの人々の墓がみとめられるが,当初は墓参のないものであった。一般庶民は,その遺体を河原に遺棄されるものであったといわれており,墓が作られたとしても簡単なものであったらしい。12世紀にはいって,都市の外周部の葬地には,集団的な墓地が顕在化し,中世的墓制が確立していったとみられる。木棺に伸展葬される形態が主流であり,古代の墓の伝統が続いていた。13世紀にはいると,都市の内部にも墓が作られて,そのなかには,都市が解体して墓地が形成されるのではなく,都市空間を前提として墓地が営まれるものもあった。ここに京域内に墓を作ることを禁じた古代からの伝統はついえた。墓の形態には,土葬では屈葬の木棺があらわれ,火葬骨は各種の蔵骨器に納入された。15世紀には,さらに墓の遺跡が増加し,墓を作りえた人々が増したことがうかがえ,直葬の形態をもつ土壙墓が,ややめだつようである。その背後には葬式仏教化した寺院があり,庶民のあいだにも累代の墓をもち,墓参をおこなう風が成立しつつあったとみてよい。16世紀には政治的に都市再編がおこなわれ,都市の空間設定に変化が生じると,その墓地や火葬場も運命をともにし,移動をよぎなくされるものもあった。こうして,近世・近代へとつながる墓のありかたが定着していった。Utilizing data from grave site excavations in the Kyoto area, this research traces the history of grave systems in the capital city through the Ancient and Medieval Periods. During the Ancient Period, the government did not permit graves in the Heiankyo city. This was most likely due to the impurity that was believed to surround death. Emperors and aristocrats were buried in undeveloped areas surrounding the city, but it is said that the bodies of commoners were simply left on the riverbed.In the 12th century, the collective graveyards that characterize the Medieval Period began to appear. The practice of extended burials in wooden coffins was carried over from the Ancient Period. During the 13th century, graveyards were provided within the city, breaking the centuries old taboo mentioned above. Some of these graves were flexed or crouched burials in coffins, but bones of the deceased were also buried in various funerary urns after cremation.During the 15th century, straight burials without coffins increased. This trend may reflect the fact that a greater percentage of the population was being buried. Buddhist temples began to manage graveyards, and many commoners also started to utilize family graves, which they visited periodically to pay respects to their ancestors. In the 16th century, however, the urban areas were reorganized, and many graveyards and crematoriums were forced to move. By this time, the foundation for the modern system of graveyards and burials had been formed.
著者
五十川 伸矢
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
no.68, pp.51-76, 1996-03

古代平安京や中世京都とその周辺の葬地となった地域の墓の考古学的資料をもとにして,都市とその周辺における墓の歴史的展開について考えてみたい。平安京では,その京域内に墓を作らせなかったため,その周辺の山野に葬地が次第に形成されていった。古代には天皇や貴族などの人々の墓がみとめられるが,当初は墓参のないものであった。一般庶民は,その遺体を河原に遺棄されるものであったといわれており,墓が作られたとしても簡単なものであったらしい。12世紀にはいって,都市の外周部の葬地には,集団的な墓地が顕在化し,中世的墓制が確立していったとみられる。木棺に伸展葬される形態が主流であり,古代の墓の伝統が続いていた。13世紀にはいると,都市の内部にも墓が作られて,そのなかには,都市が解体して墓地が形成されるのではなく,都市空間を前提として墓地が営まれるものもあった。ここに京域内に墓を作ることを禁じた古代からの伝統はついえた。墓の形態には,土葬では屈葬の木棺があらわれ,火葬骨は各種の蔵骨器に納入された。15世紀には,さらに墓の遺跡が増加し,墓を作りえた人々が増したことがうかがえ,直葬の形態をもつ土壙墓が,ややめだつようである。その背後には葬式仏教化した寺院があり,庶民のあいだにも累代の墓をもち,墓参をおこなう風が成立しつつあったとみてよい。16世紀には政治的に都市再編がおこなわれ,都市の空間設定に変化が生じると,その墓地や火葬場も運命をともにし,移動をよぎなくされるものもあった。こうして,近世・近代へとつながる墓のありかたが定着していった。Utilizing data from grave site excavations in the Kyoto area, this research traces the history of grave systems in the capital city through the Ancient and Medieval Periods. During the Ancient Period, the government did not permit graves in the Heiankyo city. This was most likely due to the impurity that was believed to surround death. Emperors and aristocrats were buried in undeveloped areas surrounding the city, but it is said that the bodies of commoners were simply left on the riverbed.In the 12th century, the collective graveyards that characterize the Medieval Period began to appear. The practice of extended burials in wooden coffins was carried over from the Ancient Period. During the 13th century, graveyards were provided within the city, breaking the centuries old taboo mentioned above. Some of these graves were flexed or crouched burials in coffins, but bones of the deceased were also buried in various funerary urns after cremation.During the 15th century, straight burials without coffins increased. This trend may reflect the fact that a greater percentage of the population was being buried. Buddhist temples began to manage graveyards, and many commoners also started to utilize family graves, which they visited periodically to pay respects to their ancestors. In the 16th century, however, the urban areas were reorganized, and many graveyards and crematoriums were forced to move. By this time, the foundation for the modern system of graveyards and burials had been formed.