著者
井上 雅道
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:00215023)
巻号頁・発行日
vol.68, no.4, pp.534-554, 2004-03-31

本稿は、名護市辺野古を中心に筆者が行なってきたフィールドワークを基に、社会運動・抵抗研究の今日的な理論的枠組み-とりわけ「流用」(appropriation)論-を批判的に展開することを通じて、1995年秋の水兵による少女暴行事件後、大きな盛り上がりを見せた沖縄の基地反対運動がなぜ退潮を余儀無くされたのかを考察する。流用の概念は、社会的弱者が他者(特に権力)の文化要素を自らの文脈において別の意味で用いる過程の記述を可能にし、彼らの微細な抵抗やしたたかな主体性の分析に貢献してきた。だがその反面、流用論は、多様で異質な運動・抵抗を当事者(我々)と権力(あなた)の間の脱構築や転倒の「ゲーム」に還元し、閉域化・均質化された二者空間で「我々」の主体性や抵抗実践のみならず、「あなた」の自己増殖を助けてしまう危うさも併せ持つ。本稿では名護・辺野古の基地誘致派の運動を取り上げて、このような流用論の問題点を考える。同時に、本稿は「第三の人間」としての沖縄市民の視点を導入し、彼らが復帰後沖縄の豊かさを流用しながら基地問題に対する様々なパースペクティブが交渉・衝突する公共空間を構築する-そしてそれを最終的には瓦解させる-過程を明らかにする。一言で言えば、流用論を「我々とあなたの物語」を超えた次元にまで昇華させ、当事者の共同体、権力、市民の公共空間の間の複雑な三者関係の政治学を考察することが本稿の主題である。結論部では公共空間再構築のためのラディカルな流用の可能性も検討する。
著者
井上 雅道
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.499-522, 2013-03-31 (Released:2017-04-03)

帝国の時代にあって、生-権力は、多様な身体・意識・行為によって構成されるマルチチュードとの交渉の中で、いかにセキュリティを構築し自らを形成しているのか。本稿では、現実の世界がさまざまな出来事を通じて演劇的に構成される仕方を分析する「ドラマトゥルギー」の手法=視点を用いながら、アメリカの大学警察(ケンタッキー大学警察部)の史的かつ民族誌的記述を通してこの問いを考察したい。この目標に向けまず、大学警察が「いれば煙たがられ、いなければ文句を言われる」二律背反に直面するようになった経緯を、1960年代から1970年代にかけての学生運動とその後の歴史的文脈の中で検証する。続いて、いなくて文句を言われることがないよう警察が被疑者・犯罪者を「見る・排除する」プロセスが、いることで煙たがられることのないよう警察が自らをキャンパス共同体(マルチチュード)に「見せる」プロセスといかに交錯しているかを分析し、警察が被疑者・犯罪者とキャンパス共同体を含む三者関係の中で、死に対する(=排除する)権利を行使する「見る主体」と生に対する権力を行使する「見せる主体」とを統合するようになったこと、またこの統合が大学における生-権力=セキュリティの強化をもたらしていること、を明らかにする。その後「生-権力は際限なく強化され、私たちを無力化している」という先行研究の議論の妥当性を検討すべく、近年-特に9・11同時多発テロ以降-セキュリティが強化されたまさにそれゆえに、警察官の意識・行為において見る主体(「死に対する(=排除する)権利」)と見せる主体(「生に対する権力」)の統一が崩れ、そこにある種の危機が現れていることを明らかにする。更にこの危機を「生-権力の臨界」として概念化し、それが呼び起こすマルチチュードの新しい自由・自律への含意を論じた後、この含意を「大学のエスノグラフィー」の可能性の中で検討する。
著者
井上 雅道
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.4, pp.499-522, 2013

帝国の時代にあって、生-権力は、多様な身体・意識・行為によって構成されるマルチチュードとの交渉の中で、いかにセキュリティを構築し自らを形成しているのか。本稿では、現実の世界がさまざまな出来事を通じて演劇的に構成される仕方を分析する「ドラマトゥルギー」の手法=視点を用いながら、アメリカの大学警察(ケンタッキー大学警察部)の史的かつ民族誌的記述を通してこの問いを考察したい。この目標に向けまず、大学警察が「いれば煙たがられ、いなければ文句を言われる」二律背反に直面するようになった経緯を、1960年代から1970年代にかけての学生運動とその後の歴史的文脈の中で検証する。続いて、いなくて文句を言われることがないよう警察が被疑者・犯罪者を「見る・排除する」プロセスが、いることで煙たがられることのないよう警察が自らをキャンパス共同体(マルチチュード)に「見せる」プロセスといかに交錯しているかを分析し、警察が被疑者・犯罪者とキャンパス共同体を含む三者関係の中で、死に対する(=排除する)権利を行使する「見る主体」と生に対する権力を行使する「見せる主体」とを統合するようになったこと、またこの統合が大学における生-権力=セキュリティの強化をもたらしていること、を明らかにする。その後「生-権力は際限なく強化され、私たちを無力化している」という先行研究の議論の妥当性を検討すべく、近年-特に9・11同時多発テロ以降-セキュリティが強化されたまさにそれゆえに、警察官の意識・行為において見る主体(「死に対する(=排除する)権利」)と見せる主体(「生に対する権力」)の統一が崩れ、そこにある種の危機が現れていることを明らかにする。更にこの危機を「生-権力の臨界」として概念化し、それが呼び起こすマルチチュードの新しい自由・自律への含意を論じた後、この含意を「大学のエスノグラフィー」の可能性の中で検討する。