著者
佐藤 幸也
出版者
関東学院大学工学部教養学会
雑誌
科学/人間 (ISSN:02885387)
巻号頁・発行日
no.44, pp.85-114, 2015-03

21世紀に引き継ぐ日本の教育課題のひとつは、日本国憲法前文に示された「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という民主主義の成熟と国際平和の実現である。文部省が日本国憲法公布後の昭和22年8月に全国の中学生向け教科書用に発行した『あたらしい憲法の話』でも、この民主主義と国際平和の精神は高らかに謳われている。そのため、社会科教育が創設され、学習指導要領においても繰り返しその重要性が語られてきた。また、国民も相応の努力を重ねてきたと言っていいだろう。しかるに、冷戦の終結とパックス・アメリカーナを基本とするグローバリゼーションへの対応、中国の台頭などの国際情勢の変化と国内の産業構造の激変、具体的にはバブル崩壊後に顕著となった労働環境の劣悪化(ワーキング・プアなど)や世界トップクラスの格差拡大などによって、教育政策が一層国家主義的になってきた。これがいわゆる「近隣条項」を無視した歴史教科書の問題であり、それに関連する教科書採択の問題と道徳の教科化推進及強化につながっている。道徳教育の重要性は否定しない。ただし、アジアの人々は、道徳と歴史教育、歴史認識が不可分になっていることと、そこからどのような日本人像が浮上してくるのか、軍事、外交政策が展開されようとしているのかを危惧している。さらに、歴史修正主義とマスコミの自主規制というイデオロギーコントロールが加わっている。この結果、国内の国民生活と政治意識が萎縮し始めている。この一つの側面が国政選挙による無投票(主権行使の放棄)やヘイトスピーチである。なお、このヘイトスピーチは、国連「人種差別撤廃条約 あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」の第4条によると、「締約国は、一の人種の優越性若しくは一の皮膚の色若しくは種族的出身の人の集団の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体又は人種的憎悪及び人種差別(形態のいかんを問わない。)を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体を非難し、また、このような差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとることを約束する」とされていることからも、近年日本国内で活発化しているヘイトスピーチは無視できないものであることが理解されよう。こうした社会的状況は、ともすれば「いつかきた道」に誘導されかねない危険性を持つ。そのことによって、災禍に遭遇しないとも限らないのである。経済成長神話がすでに崩壊しており、世界は次なる資本主義システムを模索している。ドイツのメルケル首相が脱原発、自然エネルギー産業のフロンティアに舵を切り、イスラム世界は産みの苦しみにあえいでいる。日本は、その勤勉さと控えめではあるが高い共感能力と誠実さを持ち、国際社会からも評価されてきた。それが、歴史修正主義や国家主義的教育が再燃していくことになれば、これまで積み上げてきた努力が水泡に帰しかねない。現在は、そうした岐路に立っている、と言えよう。本研究では、近現代日本の教育構造や教育課程編成原理とその社会的背景を捉え直し、国民統治、教化手段としての教育行政の継続が、国際理解と平和友好促進とは逆ベクトルの歴史認識と関係しており、ネオナショナリズムの危険性が拡大していることの問題性を考察した。
著者
牧内 義信 佐藤 幸也
出版者
関東学院大学理工学部建築・環境学部教養学会
雑誌
科学/人間 (ISSN:02885387)
巻号頁・発行日
no.50, pp.73-136, 2021-03

新学習指導要領による高等学校教育の本格実施が迫っている。改訂された学習指導要領は、新教育基本法と関連する法律等の整備を踏まえた上で、従来の教育改革の流れを汲みながら、より一層学校教育のカリキュラム編成や教育方法等まで踏み込んだ内容となっている。思想と手法は新自由主義によるものと言えるが、日本社会が構造的に抱える緊急的課題に応えかついわゆる"Society 5.0"なども意識した学校の在り方、教授方法の改善等まで細かに論じたものとなっている。そうした改善、改革には一定の説得性はあるものの、実際の現場に対してはより一層負担を強いるものとなっていることも無視してはならない。「ブラック」職業とまで揶揄されるようになった教職は、その尊厳性や専門性などが毀損されている。ここでは、保護者などが持つ教育政策への不満などが国家、政府ではなく直接的に教育委員会や学校の教職員に向けられることも珍しくなく、本来であれば教育の専門家である教職員と保護者、地域の関係者などが児童生徒を核にして公教育のよりよい実践を目指して連携・協力し合う関係が築かれることが望ましいにもかかわらず、児童生徒も含めてそれらの関係性は分断されている実態がある。マスコミなどで取り上げられるような一部では成立しているように見えるものの、臨教審以来の新自由主義と市場化が進められた結果(地方自治の基盤劣化も含め)、識者の間では「公教育の崩壊」という言葉さえ聞かれるようになった。生徒と教師の学びの共同体である学校、授業の改善にほとんどの教職員は誠実に取り組もうとしているが、やればやるほど心身にダメージを蓄積することや生徒(子どもたち)の「学びからの逃走」、健全に成長発達することの危機の諸相は深刻になっている。その一つとして懸念されているのが現場の実態を無視したICTの推進である。久里浜にある国立の医療・教育機関の医師などは新たな病理としての「スマホ依存症」などITの普及に伴うリスクに警鐘を鳴らしているが、欧米各国でもこの問題は切実なものとして受け止められている。ドイツや北欧などで自然体験を豊富にそろえた教育プログラム(例えば森の中の学校園やシュタイナースクールなど)、イギリスで行われたスマホを捨て野に出ようというようなルソーの思想的、方法的流れを汲むような教育実践、教育ファーム(近年ではCity Farmという名称が使われるようになった)での学びは、人間性を呼び起こす、日本的な言い方をすれば「健全育成」が図られている。蛇足かも知れないが、平成以降の学習指導要領では「体験」学習の重要性が繰り返し述べられている。しかし、そのための条件整備はあまり進められておらず、豊かな自然体験に預かれるのはどちらかと言えば富裕層の児童生徒であり、体験学習においても格差が拡大している。現代の社会的病理の蔓延と将来的リスクの増大などはSDGsの重要な学習課題でもあり、それらは学校の教職員だけでは到底対応しきれない問題である。そこで、各教育委員会や高等学校では従来の理科教育の在り方を見直し、サイエンスとして学ぶこと、サイエンスとしての学びが未来の社会を担う公民・市民(国民)として「生きて働く」学力形成を目指す方向に行きつつある。大学入試に大きな影響を受けるが、高大連携や中学高校との一貫した自然科学の教育の内容と方法、それを具体的に実践する「授業」の場をどのように構築していけばいいのか模索している。本研究では、上記のことを意識しつつ、これまで高等学校教育について検討、考察してきたこと等を活かしながら、新学習指導要領の趣旨を踏まえ、課題解決に向かう学力と生きる力の形成を目指す高等学校理科の教育指導計画、授業改善の具体を示すものである。