著者
前田 修輔
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.130, no.7, pp.61-82, 2021 (Released:2022-07-20)

国家の栄典たる国葬は、戦前の20例に対し、戦後は1例のみにとどまり、代わって国民葬や内閣・自由民主党合同葬儀などの形が登場した。この展開は何によりもたらされたのか。本稿は、昭和42年の吉田茂国葬、昭和50年の佐藤栄作国民葬、昭和55年の大平正芳内閣・自由民主党合同葬儀の3例を検討対象とし、国家勲功者に対して内閣が主体となり執り行われる公葬と、それを取り巻く問題から、戦後日本の国家における顕彰・追悼の姿を検討するものである。 吉田の国葬に際し、宗教的形式の採用によって政教分離への批判をおそれた政府は、国葬から宗教色を排除する。そのため、明治以来、神道式で行われてきた儀式の連続性が途絶え、新たな形式が登場する。またこれは閣議決定により実施された。だが日本国憲法下で、この「国家による葬儀」の決定過程に議会が参画しないことに対する批判が湧き上がる。さらに佐藤が国葬とされなかったことは、権衡の関係から国葬該当者の不在を招いた。加えて、過去に法的根拠が存在したという事実が重要視されるようになった結果、国葬から国民葬や合同葬へと移行した。 また、吉田の国葬では、政府側が国民の協力を求め、メディア側もこれに自主的・積極的に協力した。しかし、国民全体で偉勲者の死を悼むには至らず、政府やメディアへの批判も生じてしまう。そのため、その後の公葬は国民の参画規模が縮小し、メディア側の姿勢も消極的となる。 公費による首相経験者の顕彰は、時の政権の正当性の主張にもつながる行為であり、また遺された者にとって政治的な意味をもつこともある。よって、政府・与党が顕彰するに足る人物だと判断されたからこそ公葬が行われるのであり、その中心的な要素は国葬から合同葬に継承されていると結論づけた。