著者
北嶋 秀子
出版者
一般社団法人日本色彩学会
雑誌
日本色彩学会誌 (ISSN:03899357)
巻号頁・発行日
vol.33, no.2, pp.83-94, 2009-06-01

日光東照宮(以下,東照宮)・陽明門の正面に懸かる勅額は,人目につきやすい箇所に配されている為,特別な意味が込められていると考えられる.「極彩色」と称されるその類は,勅額のほかに「置紋」と呼ばれる独特な意味を与えられた「青地に金彩」の紋様として,水盤舎・虹梁などに見出される.置紋の形象には龍や鳳凰などが採用され,いずれも徳川家康(1542-1616,以下,家康)を象徴するものであると一般的には理解される.「青地に金彩」を陰陽五行説の五色から検証する場合,「金=黄+金属光沢」と表すことができるので,色相においては青と黄で比較しなければならない.青と黄を字義から検証すると,青は「青侍」のように官位の低いことを表し,また中国では「青袍」が「賎者の服」とされることから,身分の低い者の服の色であることがわかった.それに対して色相・黄は天皇と皇太子だけに着用を許された「禁色」として用いられる色である.青と黄が身分や官位において対照的な色相であることは新たな発見であった.東照宮において,その「極彩色」の代表とも目される「青地に金彩」は,「視覚的な対照性」と「色格における対照性」という2つの対照性をもって成り立つ.金のもつ意味は黄に準じるが,さらに権力や富を象徴するのが金であり,この部分が東照宮では大きな意味をもつ.すなわち,勢い猛の徳川幕府や家康を「極彩色」や「金」で表したのである.
著者
北嶋 秀子
出版者
日本色彩学会
雑誌
日本色彩学会誌 (ISSN:03899357)
巻号頁・発行日
vol.39, no.6, pp.227-238, 2015

暈繝彩色は,仏像や仏具など仏教関係のものに施され,主に「紺(青)・丹(赤)・緑・紫」のグラデーションを用いて,鮮やかな多彩感や立体感を表す装飾的な彩色技法である.暈繝彩色は,インドから中国に伝わり,中国で完成したと考えられる.以前にも拙稿で暈繝彩色について検証したことがあるが,本稿では敦煌莫高窟における進化の過程とともに,暈繝彩色の定義についても再検証した.敦煌莫高窟の壁画を時代ごとに『中国石窟・教煌莫高窟』で確認しながら,先学の研究を基に暈繝彩色について再検証した結果,教煌莫高窟において6世紀前半には筆禍らしき彩色法が見られ,7世紀には暈繝彩色が完成していたと考えられる.薄暗い石窟内は少ない光量ゆえに,物体が平面化し通常と異なる視感竟に陥ることが想像される.その平面化の問題を解決する方法として,暈繝彩色を構成するグラデーションの段数を,増やすことが考えられた.それによって「色彩による立体感」を獲得し,暈繝彩色が爛熟期に達したと考えられるのである.さらに,暈繝彩色のグラデーションは,彩度を強く意識したトーンのグラデーションであることも明らかになった.薄暗い環境下で立体感を表出するために工夫された彩色法が,それまでの暈繝彩色を完成された暈繝彩色へ高めたと考えられる.
著者
北嶋 秀子
出版者
一般社団法人 日本色彩学会
雑誌
日本色彩学会誌 (ISSN:03899357)
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, pp.15, 2018-01-01 (Released:2018-02-07)
参考文献数
21

暈繝彩色は7 世紀に中国からわが国へ伝来した彩色技法である.主に仏教的なものに使用され,「鮮やかな多彩感」や「立体感」を表す.中国と日本の暈繝彩色は,同じ画材,同じ描法であるにも関わらず,違いが認められる.敦煌莫高窟に代表される中国の暈繝彩色は「立体感」を,それに対して日本の場合は,「鮮やかな多彩感」を重視した.その結果,日本の暈繝彩色は平面的で,その後装飾的なものになったと考えられる. 本稿ではもともと立体感を表す彩色技法であった暈繝彩色が,なぜ日本では平面的で,後に装飾的になったのかを考察した.奈良時代までは立体感を帯びた暈繝彩色であったが,徐々に日本独自の暈繝彩色へと変容する.そこには当時の平面的な絵画(仏画)の影響があり,その変容の時期は,密教請来との関係が考えられる. 8 世紀に立体的であった暈繝彩色は,9 世紀の過渡期を経て,10 世紀に平面的になった.そして11 世紀の平等院鳳凰堂では,平安貴族の耽美主義の影響により,装飾性を重視した暈繝彩色へ推移したと考えられる.日本の暈繝彩色で「鮮やかな多彩感」をどこよりも発揮しているのが,平等院鳳凰堂である.
著者
北嶋 秀子
出版者
一般社団法人 日本色彩学会
雑誌
日本色彩学会誌
巻号頁・発行日
vol.42, no.1, 2018

<p> 暈繝彩色は7 世紀に中国からわが国へ伝来した彩色技法である.主に仏教的なものに使用され,「鮮やかな多彩感」や「立体感」を表す.中国と日本の暈繝彩色は,同じ画材,同じ描法であるにも関わらず,違いが認められる.敦煌莫高窟に代表される中国の暈繝彩色は「立体感」を,それに対して日本の場合は,「鮮やかな多彩感」を重視した.その結果,日本の暈繝彩色は平面的で,その後装飾的なものになったと考えられる.</p><p> 本稿ではもともと立体感を表す彩色技法であった暈繝彩色が,なぜ日本では平面的で,後に装飾的になったのかを考察した.奈良時代までは立体感を帯びた暈繝彩色であったが,徐々に日本独自の暈繝彩色へと変容する.そこには当時の平面的な絵画(仏画)の影響があり,その変容の時期は,密教請来との関係が考えられる.</p><p> 8 世紀に立体的であった暈繝彩色は,9 世紀の過渡期を経て,10 世紀に平面的になった.そして11 世紀の平等院鳳凰堂では,平安貴族の耽美主義の影響により,装飾性を重視した暈繝彩色へ推移したと考えられる.日本の暈繝彩色で「鮮やかな多彩感」をどこよりも発揮しているのが,平等院鳳凰堂である.</p>
著者
北嶋 秀子 Hideko Kitajima
出版者
日本色彩学会
雑誌
日本色彩学会誌 = Journal of the Color Science Association of Japan (ISSN:03899357)
巻号頁・発行日
vol.33, no.1, pp.2-13, 2009-03-01
参考文献数
30

我々は日常会話の中でごく普通に極彩色ということばを使用し,その意味をわざわざ辞典に頼らずとも感覚的に理解している部分を有する.日光東照宮(以下東照宮と記す)や横浜中華街の関帝廟を見たとき,条件反射のように口をついて出てくるのが極彩色ということばである.文献上での「極彩色」の初出は1582年と考えられるが,現在「極彩色」と称される唐招提寺金堂や平等院鳳凰堂の彩色は,8世紀から11世紀にかけてのものである.仏堂内を彩色で荘厳するのは法隆寺金堂(7世紀)が最初で,主に暈繝彩色によるものであった.その暈繝彩色の彩色規範として説かれたのが『二中歴』(鎌倉時代)にある「紺丹緑紫」である.また,桃山時代以降「極彩色」と「金彩」が同義語で使用される場合も見受けられる.したがって,極彩色,暈繝彩色,紺丹緑紫と金彩の相互関係が明らかになれば,「極彩色」の解明が可能となろう.江戸時代初期の東照宮造営に関する文献と,それを基にした『国宝東照宮陽明門・同左右袖塀修理工事報告書』(1974)に記述された「極彩色」の分析から,東照宮における「極彩色」の意味が7つであることを検証した.その結果,当時の「極彩色」は,現代の一般的な「極彩色」とは異なる意味をもつことがわかった.当初は建築物の彩色であったと考えられる「極彩色」は,東照宮に限り木彫彩色に顕著である.それは徳川幕府の権力誇示のために求められた彩色であり,狩野派の絵師たちによって生み出された.We usually use a word Gokusaishiki in our conversation. And we can make sense of the meaning of it without a dictionary. Sometimes we utter the word Gokusaishiki as a conditional reflex when we see Nikko Toshogu Shrines or Kantei-Byo in Yokohama China Town. Gokusaishiki is seen on an old book first in 1582. But at the present day, we use Gokusaishiki that the coloring of the main building of Toshodaiji and Byodoin-Hoodo which was built in the 8th and 11th century. Inside of Kondo in Horyuji was decorated by coloring for the first time in Japan, and they were painted mainly by Ungen-coloring. Kon-tan-roku-shi on "Nichureki" in Kamakura-period showed the rules of Ungen-coloring. After the Momoyama-period, sometimes it seems that Gokusaishiki is a synonym for Golden-coloring. If it was able to show a relation to Gokusaishiki, Ungen-coloring, Kon-tan-roku-shi and Golden-coloring, the resolution of Gokusaishiki would be clear. The meaning of Gokusaishiki in Toshogu in the beginnings of the Edo-period was researched by analysis of Gokusaishiki in the old books on construction of Toshogu. Therefore it has 7 meanings in Toshogu. Thus it found out that Gokusaishiki at that time had a different meaning from the one we use at the present day. Gokusaishiki was the coloring of the building in the beginning, but in case of Toshogu, it appeared on the coloring of wooden sculptures. It needed to show the power of Tokugawa-shogunate. Those works were done by painters of Kanou-ha.