- 著者
-
和田 仁孝
- 出版者
- The Japan Sociological Society
- 雑誌
- 社会学評論 (ISSN:00215414)
- 巻号頁・発行日
- vol.54, no.4, pp.413-430, 2004-03-31 (Released:2009-10-19)
- 参考文献数
- 15
法は, そもそも「自律的主体」概念を要とする近代の秩序編制装置として「法主体化のプロジェクト」を推進してきた.しかし, 皮肉にもそれが可能であったのは, 法と対峙した共同的社会組織が, 法の偏頗性に起因する機能不備を補完していたからにほかならなかった.しかし, 現在, 共同的社会組織の融解にともなって, 人々の法制度への要求は過剰化し, そのことで法の機能不全も露呈してきている.法はそれが本来想定した「法主体」とは異なる, 流動的で多元的な「個人化」の波に直面せざるを得なくなっているのである.「公」「私」の境界の崩壊によって流出した「感情」や「日常的正義感覚」が, 法の個々人による「自前の解釈」への応答を要求し, もはや法は, 普遍的に妥当する実体的規範を説得的に人々の前に提示できなくなってきている.近代の「普遍的正義」という正当化原理が, 「個人化」の動きの中で, もはや有効に作動しなくなっているのである.法という, 「個人」を超越する普遍性に根拠を置く制度, 「個人化」とは対極にあるはずの制度が, 現在の, この「個人化」の流れに直面したとき, そこでは何が生じているのだろうか.ある医療事故訴訟過程の中に見られる「個人化」への対応, 司法の周縁を調整的に拡張するADRの試みなどを, ここでは検討していくことにしたい.