著者
堀 栄造
出版者
The Philosophical Association of Japan
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
no.50, pp.244-252, 1999

本稿は、一九〇六年のフッサールの未公開の遺稿AVIlと一九〇七年のフッサールのホフマンスタール宛ての書簡に基づいて、一九〇六年頃のフッサールの美学がどのようなものであったのかを、そして、その美学がフッサールの現象学的方法とどのように密接に関連していたのかを、解明しようとするものである。<BR>一九〇六年から一九〇七年にかけてのフッサールは、信奉者たちやホフマンスタールとの交流を通じて、美学的問題に大きな関心を寄せている。例えば、一九〇六年四月一七日には、ダウベルトとフィッシャー博士がゲッチンゲンのフッサールを訪問し、「美的客観性」をめぐって会談しているが、その会談は、取るに足りないとは言えぬ深化と先鋭化を生み出したのだった。また、一九〇六年一二月六日には、ホフマンスタールがゲッチンゲンのフッサールを訪問し、一九〇七年一月一二日には、フッサールは、「現象学的観取と美学的観取」に関するホフマンスタール宛ての書簡を書いている。<BR>それでは、その当時のフッサールにとって、何が問題だったのか。それは、「主観的体験の中でのみ遂行されるにもかかわらず、即自的に存在する客観性を把握する認識、の可能性という、底知れぬ問題」だったのである。われわれの認識は、主観的体験の中で遂行されるにもかかわらず、認識対象は、主観的体験の外にある「即自的に存在する客観性」であり、それは、主観的体験には到達しえない「超越的な現存[transzendenteExistenzen]」である。それは、通常われわれが認識していると素朴に思い込んでいる「現実」であるが、フッサールが前掲の「底知れぬ問題」に気づくやいなや、それは、「僣称された現実[prätendierte Wirklichkeit]」へ一変する。われわれが素朴に信じている「現実」は、フッサールにとって、もはや「真の現実」ではなくなるのである。<BR>「底知れぬ問題」と苦闘していたフッサールは、一九〇七年一月一二日付けのホフマンスタール宛ての書簡の中で、次のように述べている。すなわち、長い間求められていた諸々の思想的総合が、天から降って来たように、突然、私に与えられた。私は、それらを、即座に、書き留めなければならなかった、と。ここで言われている「諸々の思想的総合」とは、「現象学的方法」のことに違いない。そして、「現象学的方法」つまり「現象学的還元」は、「僣称された現実」に代わる「真の現実」を、「即自的に存在する客観性」に代わる「現象学的な本質的客観性」を、捉えるのである。<BR>「現象学的還元」という「現象学的方法」を着想するこの頃のフッサールが、美学的問題に大きな関心を寄せたのも、実は、「即自的に存在する客観性」としての「実在的客観性」と、「本質的客観性」としての「美的客観性」との問題を、めぐってのことである。そこで、さっそく、次の第一節において、「像芸術」と「純粋空想芸術」とのフッサールによる対比を通して、この問題を究明しなければならない。