著者
大越 桂 副島 賢和 小沢 浩
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.3-8, 2018

1.自己紹介小沢 今日、司会を勤めさせていただきます、島田療育センターはちおうじの小沢と申します。まずは、演者のお二人から自己紹介をお願いいたしましょう。大越 こんにちは。大越桂です。桂は気管切開をしていて声を出せないので、筆談で母の紀子がお伝えしますね。こんにちは。桂です。双胎の第二子として生まれましたが、双子の姉は死産でした。819グラムの超未熟児だった私は、重度脳性まひと共に生き、28歳になりました。9~10歳ごろから気持ちが伝えられないストレスにより嘔吐が続きました。12歳のときは危篤状態になり、両親や周りの人々から「勝手に別れを言われ」ましたが、その怒りで峠を越えることができました。そのことを、後から言葉で伝えることができて溜飲を下げたのです。13歳で気管切開を受け声を失いました。通信手段がなくなり困惑しましたが、支援学校の訪問教育の先生から筆談を教わりました。初めて文字を書いたとき、体中の細胞が口から飛び出すかと思うほど歓喜しました。その後は、私の詩を切り絵、写真、絵画や音楽といった世界とコラボ活動して拡げています。いまは、「あしたのわたしはしあわせになる」と強い意志を持って生きていこうと思っています。副島 皆さん、こんにちは。私は昭和大学病院の「さいかち学級」という院内学級に勤めています。2009年のテレビドラマ「赤鼻のセンセイ」で取り上げていただきました。院内学級ってご存知ですか。病院の中の学校で、病気やけがで入院している子どもたちと学習したり遊んだりします。でも、子どもたちに、「ねえねえ、病院にも学校があるんだよ」というと、「病気で入院しているのに、なんで勉強しなきゃならないの?」と言われます。これは入退院を繰り返していた小学校5年生の子どもの詩です。「道」人生の道は人それぞれだけどみんなすてきな道をもっているだから、とまりたくないときどきまようこともあるけどそれでも、負けずにすすみたいとまりたくない自分の道を進みたい子どもたちの中には表現がうまくできなくても、豊かな内的世界を持つ子どもたちがたくさんいます。それをどうやって捉え伝えていけばよいか、今日は一緒に考えていきたいと思います。2.お題1「ひま」小沢 今日の市民公開講座は、「笑点」方式でいこうと思います。最初のお題は「ひま」です。大越「ひまの音楽」大越 桂久しぶりに入院したらあっという間によくなってあとは ひまひま ひま ひまひま ひま ひまひまだなあひまだと音楽が流れ出す息の音うん 苦しくないな痰の音うん 調子がいいな心臓の音うん 今日も元気だな私の音は いのちの音楽ひまで元気の音楽は息もぴったり動き出す(社会福祉法人つどいの家 田山真希さんの朗読、その後、紀子さんがメロディをつけて歌いだす)私たちは毎日体調のよい悪いに向き合って生活しています。これは早めに入院したら2~3日でよくなって、あとはひまだなあと感じたときの詩です。私たちの時間は、楽しいときはあっという間に過ぎるけど、苦しい時間はとても長く遅々として進みません。でもその中にほんの少しでも楽しいことがあるとぐっとよくなるのですよね。副島 これは小学校2年生の子が書いてくれた詩です。「しあわせ」すきなものがたべれるといいすきなあそびができるといいおかあさんとずっといられるといいともだちがいっぱいできるといいいつもあさだといいそうだったらいいそうだったらいいこの子たちが大嫌いなものは、ひまです。なぜかというと、考える時間がいっぱいあるからです。家族のこと、友達のこと、自分の身体のこと、自分の将来のこと、そんな心の痛みは味わいたくないです。せめて教室に来てくれたときは、患者であるあの子たちを子どもに戻そうと思って関わります。3.お題2 「生きる」大越「積乱雲」大越 桂ぐんぐんそだつぐんぐんのびる夏の雲そんなふうにいきおいよく生きてみたい積乱雲は夏の雲です。病気のときは病室からみる雲の空気の流れひとつでさえ勢いがありすぎてついていけない、自信のなさに覆い隠されてしまいます。これを書いたのは毎日吐いてばかりで、窓の雲がぐんぐん大きくなるだけで、いまの自分の置かれた状況とすごく距離があるように思えて落ち込んでいたときの詩なんです。でも、いまは台風を起こす系の積乱雲の体力をつけたおかげで、勢いを持って一歩先を生きていくことを考えています。私もそろそろ三十路ですが、20代をぐんぐん生きてこられたように、30代、40代、50代、60代とまだまだ行こうと思うので、紀子も100歳以上までがんばってくださいね。副島「生きる」大越 桂生きること、それは怖いと思うこと何かを思いつくこと美しいものを見ること心が温かくなることだれかと会って楽しいと思うことみんなと気持ちを分け合えることどきどきワクワクできることそして小さな命が生まれることこの子は小さいときから手術を繰り返してきた小学6年生の女の子です。なかなかよくならなくて、お医者さんから、この続きは中学に入ってからしようねといわれました。その夜、「私、不良品だから」と彼女は看護師さんに言ったそうです。この言葉に私はどう答えたらよいか悩みました。谷川俊太郎さんの「生きる」という詩があったので、彼女にとって「生きる」ってどういうことか、たくさん書き出してもらいました。「怖いと思っていいんだよね」って一番最初に言ってくれました。そして、「だれかと会って気持ちを分け合えて、どきどきワクワクできたら、それが私の生きるってことです」と教えてくれました。仕事をしていて「人生の問い」をもらうことがあります。教師としてちゃんと答えなきゃと思うけど、答えられないときが多くて。そんなとき、あるお母さんから、「いまいっぱいいっぱいだから、先生ちょっとあずかっといて、そうしないと私生きていけないかもしれないから」と言われたことがありました。預かるだけならできるかも、一緒に向き合って歩けるかもと思いました。(以降はPDFを参照ください)
著者
大越 桂
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.42, no.2, pp.127-128, 2017

心が見える突破口 双胎第二子、819グラムの超未熟児で誕生した私は、重度脳性まひとともに現在28歳になった。一人では何もできなくても多くの人に支えられて今日を生きている。山積する課題の中にあっても、未来の希望やよいことを確信できることこそが私にとっての「幸せ」である。ここにいていい、と確かに許されている実感に包まれている。 全介助の重い障害者という私と、自由気ままな内面にいる私。独立した二人の私を生きてきた。二人が互いの距離に耐え切れなくなったとき筆談に出会った。外界に伝えたい内面の私を一言ずつ伝えながら、私は海の底の石から等身大の人間になっていった。 どの一日も常にそこにいる人に向かって「心をみて」、と叫び続けた。全身全霊で表現することだけは諦めなかった。私を人として関わる人といるときだけは、確かに人になれることを知っていたからである。 ここに至る忘れられない突破口が5つある。(その1・6歳) ハムストリング手術のために1年間入院した。初めて両親と離れる生活で、障害がある子どもがこんなに多くいることを知った。同時に、私の障害が一番重いことも知った。自力移動し、片言でも会話ができる子どもの要求は率先してくみ取られた。私は常に待ち続けた。一番最後でも、必ず関わってくれる人がいることも知った。 友だちの会話は面白くてたまらなかった。もっと聞きたくて、統制のない首を思わず持ちあげて見ようとした一瞬を、面会にきた母が見逃さず言った。「この子、わかっているのかもしれないよ。」(←そうなんだってば。気づくの遅すぎ・・心の声)(その2・7歳) コミュニケーション支援機器を利用して、スイッチで初めて「おかあさん」と呼んだ。自分の言葉を自分のタイミングで伝えることが私にもできるのだと知った。母は感動して泣いた。(←弟に先を越されたけど、私だって呼べた。嬉しくて泣いた)(その3・11歳) 伝えたいことが伝わらないストレスで嘔吐発作を起こすようになった。肺炎を繰り返して呼吸器を装着していたとき、スタッフの足音が聞こえるだけで不安になり心拍アラームが鳴った。服薬で眠っているように見えても実は起きているのかもしれないと母が気づいた。希望を聞いてもらえるようになり、好きな音楽やケアの要望をアラーム音と心拍数で伝えられるようになった。 (←本当に眠いとき話しかけられるとやかましい)(その4・13歳) 気管切開で失声した。通信手段がなくなり困惑した。支援学校の訪問教育で筆談を教わる。初めて文字を書いたとき、体中の細胞が口から飛び出すかと思うほど歓喜した。死んでもやり遂げると強く誓った。(←後に危篤のときに勝手にお別れを言われて怒りで峠を越えたことを伝えて溜飲を下げた)(その5・14歳) 常に介護で共に過ごす母と大喧嘩をした。それまでの恨みつらみをぶちまけてやっと対等になれた。初めて本当に呼吸が楽になった。(←母子の喧嘩は遠慮がない分壮絶) 詩を通して、多くの人と出会った。アーチストの表現と詩のコラボレーションは、想像もできない美しい世界を作り出す。表現する人も受け取る人もともに一度しかない今を共有し、いのちの存在を実感する至福のときを体験する。詩と触れた人々が行間に生み出す人間性に引かれる。美しいものを味わい、感動する心は当たり前のようで当たり前ではない。どの表現もすべての人が精一杯生きるいのちの表現として行っている。それらを感じ取るたびに共鳴する。自分自身が昨日よりも今日、ひとつ豊かになろうとする生命力でいっぱいになる。 誕生後10カ月の告知のとき。両親が聞いたという青年医師の言葉だ。 「この白い線は白質といって命令を伝える神経の道です。今は細くてよく見えませんが、刺激を与え続ければ、もしかしたら道が太くなるかもしれませんよ。」 『かもしれない』この一言がすべての始まりだった。 そうして、今日の私は幸せになった。略歴1989年、仙台市生まれ。819グラムの未熟児で誕生し、重度脳性まひ、未熟児網膜症による弱視など重度重複障害児として過ごす。9歳頃より周期性嘔吐症を併発し障害の重度化により要医療管理になる。13歳で気管切開により失声。筆談によるコミュニケーションを開始。2004年「第4回One by Oneアワード/キッズ個人賞」(日本アムウェイ主催)を受賞。詩と切り絵のコラボ展「みえない手」(2017)などのコラボ活動多数。2011年「花の冠」が野田佳彦総理大臣の所信表明演説に引用される。ブログ「積乱雲」http://plaza.rakuten.co.jp/678901/詩集 「花の冠」朝日新聞出版)「海の石」光文社(2012)、「あしたの私は幸せになる」ぱるす出版(2016)