著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.163-200, 2008-03

本稿は、須藤由蔵の手記である『藤岡屋日記』を素材に武士身分の売買と思われる事例を抽出し、近世中後期における武士身分の売買の実態について検討したものである。『藤岡屋日記』の中で十七の武士株の売買の事例が見つかった。分析の結果を下記のようにまとめる。 ① 全ての事例は御家人株の売買であったが、売買の対象となった御家人の役職が多彩であった。御家人の家筋をみると、「御抱席」の御家人もいれば、「御譜代准席」と「御譜代席」の御家人も少なくなかった。 ② 株の売買は密かに行われているように思われるが、実際に、家来に御家人株を買い与えた幕臣もいた。 ③ 御家人株の売買は庶民が武士になる手段として認識されているが、実際に、武家の二男以下の男子や武士身分を失った武士が武士層に戻る手段として御家人株を利用した。 ④ 身分を売った元御家人の中で町人となった者もいたことがわかった。
著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.163-200, 2008-03

本稿は、須藤由蔵の手記である『藤岡屋日記』を素材に武士身分の売買と思われる事例を抽出し、近世中後期における武士身分の売買の実態について検討したものである。『藤岡屋日記』の中で十七の武士株の売買の事例が見つかった。分析の結果を下記のようにまとめる。 ① 全ての事例は御家人株の売買であったが、売買の対象となった御家人の役職が多彩であった。御家人の家筋をみると、「御抱席」の御家人もいれば、「御譜代准席」と「御譜代席」の御家人も少なくなかった。 ② 株の売買は密かに行われているように思われるが、実際に、家来に御家人株を買い与えた幕臣もいた。 ③ 御家人株の売買は庶民が武士になる手段として認識されているが、実際に、武家の二男以下の男子や武士身分を失った武士が武士層に戻る手段として御家人株を利用した。 ④ 身分を売った元御家人の中で町人となった者もいたことがわかった。
著者
姜 鶯燕 平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.45, pp.301-335, 2012-03-30

平安末期の僧である法然は、比叡山で天台を学び、安元元(一一七五)年に称名念仏に専念する立場を確立し、浄土宗を開いた。庶民だけではなく関白九条兼実など、社会的地位に関係なく多くの者たちが法然の称名念仏に帰依した。建暦二(一二一二)年に亡くなったあとも、法然の説いた教えは浄土宗という一派だけではなく、日本仏教や思想に影響を与えた。入滅から四八六年が経った元禄一〇(一六九七)年には、最初の大師号が加諡された。法然の年忌法要が特別に天皇の年忌法要と同じく御忌とよばれているが、正徳元(一七一一)年の滅後五〇〇年の御忌以降、今日に至るまで五〇年ごとに大師号が加諡されており、明治になるまでは勅使を招いての法要もおこなわれていた。本稿は、法然の御忌における法要が確立した徳川時代のなかで、六五〇年の御忌の様子を記録した 『蕐頂山大法會圖録全』『勅會御式略圖全』の翻刻を通じて、徳川時代における御忌のあり方を浮かび上がらせることを目的とした。
著者
姜 鶯燕
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.43-84, 2009-11

江戸時代といえば、固定化された身分制社会としてのイメージが強い。しかし、身分移動の可能性が完全に閉ざされているわけではなかった。武士身分の売買が行われていたことから、個人レベルの身分上昇や身分移動は事実として存在した。 本稿の目的は、江戸時代前中期を中心に、旗本を対象とした持参金に基づく養子縁組、いわゆる「持参金養子」の処罰事例を分析することである。また、養子制と身分移動の関係性についても検討する。 近世武家の養子制は、血縁関係に拘束されることなく幅広い範囲での養子選定を認めていた。婿養子から全く血縁のつながりのない他人まで、養子として出願することが可能であった。この特質は身分移動の手段として利用された。いわゆる持参金養子である。 持参金養子の背後には、身分を正当化するための様々な偽籍工作があった。養子を実子、実弟、実従弟などと偽る、いわゆる「入子」がしばしば用いられた。「入子」になった者の中で、元の身分から幕臣の親類へと身分の転換を果たし、そのうえで別の幕臣の家と正式に養子縁組を行う者も多かった。 幕府の養子規定にある身分相応の原則に反する養子縁組は江戸時代前中期にすでに存在しており、旗本身分についても、御家人同様に、金銭に基づく不正な養子縁組である持参金養子が行われていたことが明らかになった。
著者
姜 鶯燕 平松 隆円
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.301-335, 2012-03

平安末期の僧である法然は、比叡山で天台を学び、安元元(一一七五)年に称名念仏に専念する立場を確立し、浄土宗を開いた。庶民だけではなく関白九条兼実など、社会的地位に関係なく多くの者たちが法然の称名念仏に帰依した。建暦二(一二一二)年に亡くなったあとも、法然の説いた教えは浄土宗という一派だけではなく、日本仏教や思想に影響を与えた。入滅から四八六年が経った元禄一〇(一六九七)年には、最初の大師号が加諡された。法然の年忌法要が特別に天皇の年忌法要と同じく御忌とよばれているが、正徳元(一七一一)年の滅後五〇〇年の御忌以降、今日に至るまで五〇年ごとに大師号が加諡されており、明治になるまでは勅使を招いての法要もおこなわれていた。本稿は、法然の御忌における法要が確立した徳川時代のなかで、六五〇年の御忌の様子を記録した 『蕐頂山大法會圖録全』『勅會御式略圖全』の翻刻を通じて、徳川時代における御忌のあり方を浮かび上がらせることを目的とした。