著者
小野 修三 永岡 正己 小笠原 慶彰 坂井 達朗 米山 光儀 松田 隆行 永岡 正己 小笠原 慶彰 坂井 達朗 米山 光儀 松田 隆行 長沼 友兄 安形 静男 安東 邦昭
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

石井十次の岡山孤児院は明治20年に、加島敏郎の大阪汎愛扶植会は明治29年にそれぞれ設立され、一時合併話もあったが、競合する児童保護団体だった。この両者の運命を決定的に分けたのは明治43年韓国併合と同時に、加島が朝鮮扶植農園という移民事業に挺身した点である。本研究は事務所日誌の翻刻により、また朝鮮総督府文書の調査により、両者間の比較を行ない、殖民思想の違いの他、セツルメントに着手するなど社会事業としての共通性も明らかにした。
著者
小野 修三 米山 光儀 梅垣 理郎 坂井 達朗 永岡 正己 小笠原 慶彰 松田 隆行 安形 静男
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

本研究の目的は一つには石井十次の岡山孤児院大阪分院(大阪事務所)の活動記録たる日誌を、石井記念愛染園(大阪市浪速区日本橋東)に出張して写真撮影し、その複写物によって原文の翻刻を行ない、成果を大学紀要に発表することで、明治末から大正初めの大阪の地における社会事業に関する第一次資料を公的に利用可能なものとすることであった。この点では、この弓年間の研究期間で2年度に亘り当該日誌の翻刻を研究代表者および研究分担者の所属する大学の紀要にて発表することが出来た。本研究のもう一つの目的は、上記資料を実際に利用して、明治末から大正初めの大阪の地における社会事業展開の実際の過程を解明することであったが、この点についても2篇の論考をまとめることが出来た。そこではまず第一に、事業展開における事業主とその手足として働くスタッフとの間の信頼関係が、ある場合(石井十次と光延義民)には毀損し、ある場合(石井十次と冨田象吉)には、事業主の没後も事業主の遺志を継承して精励していたことが判明した。また、事業展開の場を、大阪から朝鮮半島に求めることが当時広く模索されていたが、ある団体(岡山孤児院、時の事業主は大原孫三郎)は調査の結果進出を断念し、ある団体(加島敏郎の大阪汎愛扶植会)は同じく調査の結果、朝鮮総督府、東洋拓殖株式会社の支援のもと、進出を決断したが、この明治末から大正、昭和初期の過程を今回まとめることが出来た。ただ、昭和20年の植民地統治終了時に至る過程については未解明であり、今後の研究課題としたい。