著者
小野 修三
出版者
慶應義塾大学
雑誌
法學研究 (ISSN:03890538)
巻号頁・発行日
vol.67, no.12, pp.203-224, 1994

内山秀夫教授退職記念号一 はじめに二 『刑法改正案ノニ眼目 : 死刑及刑ノ執行猶予』(明治三五年)三 『未成年者二対スル刑事制度ノ改良二就テ』(明治三六年)四 おわりに
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.23, pp.68-52, 2012

はじめに第一章 埼玉県庁への出仕第二章 司法省への出仕第三章 内務省警保局長としておわりに
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.11, pp.122-33, 2000

解題・凡例救貧要論汎論目次第一章濟貧の略史救貧と文明救濟と政治救濟と宗教宗教的救濟の基礎観念宗教的救濟の衰退救濟法の変遷濟貧院の創設〔都市と救濟]〔濟貧制の設定〕中世の濟貧状態救濟主管の異動都會と救濟濟貧制度の設定現代の濟貧制度第二章 貧民の意義、實體及び範囲貧民とは何ぞ貧民の種類貧民古今の比較観偶發的貧民貧冨の懸隔か將た貧冨の変動か貧困の原因如何なる標準に由て貧困の範囲を知るを得べきか勞銀の増減居住関係結婚統計消費統計死亡統計細民の家計状態小河滋次郎の救貧要論社會的救濟事業の組織第三章 公的救貧救貧制度の大要救貧制度の缺点公的救貧の施行法エルベルフェルド式婦人と救貧ストラースブルグ式公的救貧の經費第四章 宗教的及有志的救貧権力と慈愛新教と救貧旧教と救貧救世軍と救貧猶太教と救貧赤十字と愛國婦人救貧事業の統一調和倫敦中央慈善協會伯林中央慈善協會第五章 救貧事業の十則救濟の普及査賑扶養義務の勵行根本的救濟質實當事者の精進救濟の標的救濟の本質廉耻心の保全家庭式各論第六章 社會的救濟事業に對する立法發達の影響勞働者の保護勞働保険法疾病保険保険法の效果雇傭契約抵當権私生児の扶養義務人事相談所第一欸 貧困の主因に對する豫防第七章 失業就業の権利職業紹介失業保険勞働組合授産塲授産殖民無宿勞働者保護法小河滋次郎の救貧要論免囚保護移住第八章 國民病結核病結核豫防の二要件病院療養私的救濟事業としての結核豫防精神病花柳病第九章 酒毒酒料の消費高禁酒法酒毒療養院禁酒運動青十字ゴーデンブルグ式第十章 家政難収入の問題に非す支出の問題なり主婦と家政家政練習勞働婦女の寄宿家政講習科目第二欸 貧困の直接救濟第十一章 収容的救濟救濟法の種類病院貧民授産塲 病院の構造バラック、バビロン式回復院林間保養院看護者分娩院唖院盲院盲唖生の強制教育療疾院精神病院養老院第十二章 自由的救濟自由救濟の長所生計の保護金保と物保の利害監督居住難の真相家賃の補助無宿者の措置自宅救療救療醫と看護者配食所慰問籃第三欸第十三章 幼児及少年の保護乳児乳児の死亡保護相談所私生児棄児院里預孤児小河滋次郎の救貧要論貧児病弱児 揺籃院幼児保護所(抹消)幼学舎保養所〔院〕生徒の健康状態保養の善後低能児勞働…姐感化事業救濟と児童保護補習教育職業の選擇國民教育大学生の活動第四欸第十四章 貧民の取締救濟の聲刑法の制裁警察と裁判窮民と遊民調査権と申告義務民法の扶養規定救濟と文明本能的救濟
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.16, pp.98-30, 2005

一、本稿はその題が厚紙の表紙にはペンにて、そして袋綴じにされた原稿用紙の第一ページ目には筆にて「犯罪豫防論綱」とそれぞれ記された手書き原稿を起こしたものである。表紙と本文は和綴じにされている。筆者名のサインはどこにもないが、使用されている原稿用紙は小河氏原稿用紙の文字が活字印刷された特製原稿用紙であり、また小河氏蔵書の印鑑が二箇所押され、綴じられた原稿用紙の中途に「犯罪豫防論講義目次」なる冊子が挿入されていて、そこには「法學博士 小河滋次郎講」と記されている。さらに表紙には1662(自4)という手書きの文字(横書き)が記されているが、これは日本生命済生会の小河文庫の一冊としての「犯罪豫防論綱」に付せられていた整理番号と考えられる。また原稿の筆跡も小河滋次郎のものと考えられる。以上の点から本稿ではこの「犯罪豫防論綱」を小河滋次郎の自筆原稿として扱う次第である。 二、以前に私は同様の小河滋次郎の自筆原稿「救貧要論」を本紀要第一一号(二〇〇〇年)にて翻刻しているが、それは小河博士の令孫小河彌榮氏が長く保管され、今日では上田市立図書館に同氏が寄贈されているものである。これに対して、今回の原稿は五山堂書店主加藤俊一氏のお世話にて古書市場より入手に至ったものであり、ここに小河滋次郎の未発表の業績として以前と同様紹介するものである。三、原本は半葉一〇行、一行二五字の赤色罫線の白色五百字詰原稿用紙に、墨書されている。同原稿用紙の綴りはまず表紙の一枚、続いて無記入の二枚、そして本文部分の漢数字で一から五十までのページ番号の振られている五〇枚と、それ以降のページ数の振られていない四三枚の計九六枚から成っている。なお、本文部分には計八枚の別紙が挿入されている。そのうちの六枚は同一規格のメモ用紙が使われ、それぞれの記載内容が本文何ページ目への注であるかは明記され、かつその指示ページの箇所に挿入されていた。他は前述の「犯罪豫防論講義目次」と活字印刷された四ページの小冊子と青色罫線の原稿用紙の断片に記入のある一枚である。この青色罫線の原稿用紙の断片には何ページ目への注記かは記されていないが、挿入箇所への注記であることはその記載内容から確認出来た。「犯罪豫防論講義目次」以外はいずれも当該別紙の挿入されたページへの注として、本稿では本稿末尾の編者注の箇所に記載した。なお、本稿では原文のページ数を、記載のない部分(五一ページ以降)も含めて上部欄外に①、②と表示した。原文の最終ページは九三ページになる。 四、この原稿の執筆時期については明記がない。ただ、本文の記載事項中に「〔(後筆) 三十二年前〕一八七五年ノ徴兵検査ニ際シ」(原文一八ページ)という箇所があり、ここから計算すると執筆当時は一九〇七年(明治四〇年)になる。(同ページ上方欄外に小河自身による計算の跡が残っている。)また小河の博士論文「未成年者ニ對スル刑事制度ノ改良ニ就テ」への言及が原文三三ページに見える。同論文によって法学博士号を授与されたのが明治三九年なので、また「犯罪豫防論講義目次」にも「法學博士 小河滋次郎講」と記されているので、右の計算の通り小河が法学博士になった翌年の明治四〇年の執筆と考えて間違いはないように思われる。当時小河は司法省監獄事務官であった。その小河が何のためにこの講義を行なったのかは未詳である。 五、「犯罪豫防論講義目次」は同冊子が挿入されていたページと特別の関係があるわけではないと判断し、ここにまず記載する。そしてその次に原本には目次が付属していないので、その代わりに本文中の各見出し部分を抽出し、比較対照を試みる。ただし、本文中の見出し部分では特に書き直しが多く見られ、かつ幾分かの混乱が見て取れるが、ほぼその書き直された最後の形と思われる文字を、第何章第何節という記載が未記入の部分も含めて、原文のまま記すことにする。
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.24, pp.51(38)-88(1), 2013

小野修三教授退職記念号はじめに第一章 貴族院議員にして司法次官第二章 司法次官から司法大臣へ第三章 枢密顧問官となり貴族院議員を辞すおわりに
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 社会科学 (ISSN:13425390)
巻号頁・発行日
no.27, pp.62-34, 2016

はじめに第一章 大正一三年一月七日以前の清浦奎吾第二章 大正一三年一月七日以降の清浦奎吾おわりに
著者
小野 修三
出版者
矯正協会
雑誌
刑政 (ISSN:02874628)
巻号頁・発行日
vol.123, no.3, pp.74-84, 2012-03
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾福沢研究センター
雑誌
近代日本研究 (ISSN:09114181)
巻号頁・発行日
no.30, pp.67-89, 2013

特集 : 慶應義塾福沢研究センター開設三十年#論説一、はじめに二、生誕一五〇年記念福沢諭吉展三、共同研究四、おわりに
著者
小野 修三
出版者
慶応義塾大学法学研究会
雑誌
法学研究 (ISSN:03890538)
巻号頁・発行日
vol.48, no.12, pp.p1269-1298, 1975-12
著者
小野 修三
出版者
慶應義塾福沢研究センター
雑誌
近代日本研究 (ISSN:09114181)
巻号頁・発行日
no.30, pp.67-89, 2013

特集 : 慶應義塾福沢研究センター開設三十年#論説一、はじめに二、生誕一五〇年記念福沢諭吉展三、共同研究四、おわりに
著者
小野 修三 永岡 正己 小笠原 慶彰 坂井 達朗 米山 光儀 松田 隆行 永岡 正己 小笠原 慶彰 坂井 達朗 米山 光儀 松田 隆行 長沼 友兄 安形 静男 安東 邦昭
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

石井十次の岡山孤児院は明治20年に、加島敏郎の大阪汎愛扶植会は明治29年にそれぞれ設立され、一時合併話もあったが、競合する児童保護団体だった。この両者の運命を決定的に分けたのは明治43年韓国併合と同時に、加島が朝鮮扶植農園という移民事業に挺身した点である。本研究は事務所日誌の翻刻により、また朝鮮総督府文書の調査により、両者間の比較を行ない、殖民思想の違いの他、セツルメントに着手するなど社会事業としての共通性も明らかにした。
著者
小野 修三 米山 光儀 梅垣 理郎 坂井 達朗 永岡 正己 小笠原 慶彰 松田 隆行 安形 静男
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

本研究の目的は一つには石井十次の岡山孤児院大阪分院(大阪事務所)の活動記録たる日誌を、石井記念愛染園(大阪市浪速区日本橋東)に出張して写真撮影し、その複写物によって原文の翻刻を行ない、成果を大学紀要に発表することで、明治末から大正初めの大阪の地における社会事業に関する第一次資料を公的に利用可能なものとすることであった。この点では、この弓年間の研究期間で2年度に亘り当該日誌の翻刻を研究代表者および研究分担者の所属する大学の紀要にて発表することが出来た。本研究のもう一つの目的は、上記資料を実際に利用して、明治末から大正初めの大阪の地における社会事業展開の実際の過程を解明することであったが、この点についても2篇の論考をまとめることが出来た。そこではまず第一に、事業展開における事業主とその手足として働くスタッフとの間の信頼関係が、ある場合(石井十次と光延義民)には毀損し、ある場合(石井十次と冨田象吉)には、事業主の没後も事業主の遺志を継承して精励していたことが判明した。また、事業展開の場を、大阪から朝鮮半島に求めることが当時広く模索されていたが、ある団体(岡山孤児院、時の事業主は大原孫三郎)は調査の結果進出を断念し、ある団体(加島敏郎の大阪汎愛扶植会)は同じく調査の結果、朝鮮総督府、東洋拓殖株式会社の支援のもと、進出を決断したが、この明治末から大正、昭和初期の過程を今回まとめることが出来た。ただ、昭和20年の植民地統治終了時に至る過程については未解明であり、今後の研究課題としたい。