著者
永岡 正己
出版者
日本福祉大学社会福祉学部
雑誌
日本福祉大学社会福祉論集 = Journal social Welfare, Nihon Fukushi University (ISSN:1345174X)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.1-30, 2018-09-30

大阪府方面委員制度は1918 年に設置されて全国のモデルとして拡大していった.その初期の活動はよく知られるが,その後,昭和恐慌期から第二次世界大戦期にかけて,社会事業も地域組織も変化してゆく中で,方面委員の組織や活動がどのように進められたか,またそこにどのような両義的な関係や葛藤があったかについては十分明らかになっていない点がある.本稿では,『大阪府方面委員事業年報』,『大阪府方面常務委員会議事速記録』および当時大阪府社会課や各方面委員事務所が刊行した文書類にもとづいて展開過程を確認し,戦後の民生委員・児童委員制度の前提や歴史的課題について検討した. 方面設置と組織の変化,救護法や諸制度への対応や医療救護,災害救援等の展開が見られつつ,方面委員令以後次第に統制的組織強化が並行して進む.日中戦争後の第二期計画の具体化によって,対象の拡大が図られるとともに,軍事援護や徴用援護,労働力政策との関係が強まってゆく過程で,活動における質的変化や葛藤があったことも明らかになる.原点にあった主体的なあり方が形式的なものになり,他の戦時組織に二義的に組み込まれてゆく面もみられた.これらは戦後の民生委員制度改革における前提であり,歴史的課題として今日に引き継がれているものである. なお,本稿は①展開過程,②各方面における個別実践事例の検討,③方面委員および関係者群像,④戦後民生委員制度の歴史的課題のうち,前半の部分である.
著者
永岡 正己
出版者
日本福祉大学社会福祉学部
雑誌
日本福祉大学社会福祉論集 = Journal social Welfare, Nihon Fukushi University (ISSN:1345174X)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.1-30, 2018-09-30

大阪府方面委員制度は1918 年に設置されて全国のモデルとして拡大していった.その初期の活動はよく知られるが,その後,昭和恐慌期から第二次世界大戦期にかけて,社会事業も地域組織も変化してゆく中で,方面委員の組織や活動がどのように進められたか,またそこにどのような両義的な関係や葛藤があったかについては十分明らかになっていない点がある.本稿では,『大阪府方面委員事業年報』,『大阪府方面常務委員会議事速記録』および当時大阪府社会課や各方面委員事務所が刊行した文書類にもとづいて展開過程を確認し,戦後の民生委員・児童委員制度の前提や歴史的課題について検討した. 方面設置と組織の変化,救護法や諸制度への対応や医療救護,災害救援等の展開が見られつつ,方面委員令以後次第に統制的組織強化が並行して進む.日中戦争後の第二期計画の具体化によって,対象の拡大が図られるとともに,軍事援護や徴用援護,労働力政策との関係が強まってゆく過程で,活動における質的変化や葛藤があったことも明らかになる.原点にあった主体的なあり方が形式的なものになり,他の戦時組織に二義的に組み込まれてゆく面もみられた.これらは戦後の民生委員制度改革における前提であり,歴史的課題として今日に引き継がれているものである. なお,本稿は①展開過程,②各方面における個別実践事例の検討,③方面委員および関係者群像,④戦後民生委員制度の歴史的課題のうち,前半の部分である.
著者
小野 修三 永岡 正己 小笠原 慶彰 坂井 達朗 米山 光儀 松田 隆行 永岡 正己 小笠原 慶彰 坂井 達朗 米山 光儀 松田 隆行 長沼 友兄 安形 静男 安東 邦昭
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

石井十次の岡山孤児院は明治20年に、加島敏郎の大阪汎愛扶植会は明治29年にそれぞれ設立され、一時合併話もあったが、競合する児童保護団体だった。この両者の運命を決定的に分けたのは明治43年韓国併合と同時に、加島が朝鮮扶植農園という移民事業に挺身した点である。本研究は事務所日誌の翻刻により、また朝鮮総督府文書の調査により、両者間の比較を行ない、殖民思想の違いの他、セツルメントに着手するなど社会事業としての共通性も明らかにした。
著者
小野 修三 米山 光儀 梅垣 理郎 坂井 達朗 永岡 正己 小笠原 慶彰 松田 隆行 安形 静男
出版者
慶應義塾大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

本研究の目的は一つには石井十次の岡山孤児院大阪分院(大阪事務所)の活動記録たる日誌を、石井記念愛染園(大阪市浪速区日本橋東)に出張して写真撮影し、その複写物によって原文の翻刻を行ない、成果を大学紀要に発表することで、明治末から大正初めの大阪の地における社会事業に関する第一次資料を公的に利用可能なものとすることであった。この点では、この弓年間の研究期間で2年度に亘り当該日誌の翻刻を研究代表者および研究分担者の所属する大学の紀要にて発表することが出来た。本研究のもう一つの目的は、上記資料を実際に利用して、明治末から大正初めの大阪の地における社会事業展開の実際の過程を解明することであったが、この点についても2篇の論考をまとめることが出来た。そこではまず第一に、事業展開における事業主とその手足として働くスタッフとの間の信頼関係が、ある場合(石井十次と光延義民)には毀損し、ある場合(石井十次と冨田象吉)には、事業主の没後も事業主の遺志を継承して精励していたことが判明した。また、事業展開の場を、大阪から朝鮮半島に求めることが当時広く模索されていたが、ある団体(岡山孤児院、時の事業主は大原孫三郎)は調査の結果進出を断念し、ある団体(加島敏郎の大阪汎愛扶植会)は同じく調査の結果、朝鮮総督府、東洋拓殖株式会社の支援のもと、進出を決断したが、この明治末から大正、昭和初期の過程を今回まとめることが出来た。ただ、昭和20年の植民地統治終了時に至る過程については未解明であり、今後の研究課題としたい。