著者
安藤 良平
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
no.15, pp.p1-19, 1982-03

前稿に登場した落合直亮は明治の国文学者、歌人落合直文の父であるが、本稿に述べる権田直助、藤川三渓とともに多くの著述をのこしている。幕末から明治にかけて尊王攘夷家が丹念に記録をのこし、文章をものしている理由について本論で若干の考察をしたい。かれらは維新の表舞台で活躍した雄藩の出身でないから、働いたわりには、戦後の生活は恵れなかった。また自ら売り込んで猟官運動をするほどの厚かましさもなかった。もっとも、晩年になって権田や藤川の尊王運動の語り口が、おおげさになったのは国家の処遇にたいする反感があったのかもしれない。革命期にはこのような中級の運動家は、御用済になれば、使いすてになるのは、いつの時代でもおなじである。自分の望むところに働き、著述に励むことのできたかれらはまだ幸福といってよい。多少の感慨をもって、かれら国事鞅掌者の生きざまを追ってみた。
著者
安藤 良平
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.25-37, 1990-03-20

明治維新の歴史の陰のなかに江戸薩摩藩邸焼討事件があり、赤報隊 (官軍先鋒嚮導隊) のような悲惨な姿もあり、その情況は前著、国事鞅掌者の映像に述べたとおりであるが、これらの事件に関係した薩摩出身の尊王攘夷家、伊牟田尚平の生涯をみると、かれは目的の為には手段を選ばない非合法活動によって自滅してしまうのであるが、従来伊牟田の最期として「明治維新人名辞典」に記載されたものとはかなり異るのである。たまたま柏市の若松盛彦氏から寄贈された伊牟田尚平の刑事裁判の判決書、当時の伊牟田の口供書、および宣告 (明治二年の京都府史料の写し) によって伊牟田の処罰事情が明らかになったので国事鞅掌者の映像に記述したかれの業蹟を訂正したいとおもい、この小論をまとめることにした。
著者
安藤 良平
出版者
跡見学園女子大学
雑誌
跡見学園女子大学紀要 (ISSN:03899543)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-17, 1984-03-15

薩摩藩江戸屋敷焼打事件に登場する浪士隊の責任者、落合直亮を第一篇に、権田直助を第二篇に掲げたので、第三篇に小島四郎 (相楽総三) をあげて論述する。小島四郎は薩摩浪士隊の総裁として活躍したが、後、赤報隊第一隊々長とし関東に向って出陣中、部下の掠奪暴行事件の責任者として処罰され、刑死するに至った。かれの悲惨な運命について、長谷川伸が「相楽総三とその同志」(昭和十五年から十六年にかけて執筆) で紹介し、これを契機に多くの読者に相楽総三の非運が認識されたが、何故相楽が「にせ官軍」として処刑されたか、その真相が充分にかかれていない。同書執筆の時期が大平洋戦争勃発直前で、明治維新の暗いところは時勢にふさわしくなかったのかもしれない。赤報隊事件は明治新政府が発足後、直面した財政問題と深くかかわり、総三などは財政弥縫策の犠牲者であるとの見解が大方の認識で、それについてのすぐれた論説もみえるがなお明らかでないところがある。本論で関係史料を整理し、相楽総三の実像を再検討してみたい。