著者
實川 幹朗
出版者
心の諸問題考究会
雑誌
心の諸問題論叢 (ISSN:13496905)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.27-61, 2009 (Released:2009-07-14)
参考文献数
18
被引用文献数
1

学術雑誌の投稿論文審査(査読)が適切に行われていない問題を検討し、改善策を探ることが本論の狙いである。問題の性格を明らかにするため、不採択となった心理学論文二編の内容と査読所見とを検討した。一編は論理的・形式的議論から、脳とは独立の魂の存在を推論するもの、もう一編は特殊な教育現場における心理療法の事例から、治療論と研究方法の見直しとを論じたものであった。対照的な性格を持つこれらの論文にはしかし、着想の斬新さという共通点があった。査読所見を検討したところ、いずれの論文についても、見解の共通点がほとんどなく、不採択理由のすべては誤解に基づくか、不適切なものであった。心理療法の論文については、不採択と結論しながら理由のまったく挙げられない所見や、自分に分からないことをもって理由とした所見が目立った。また再審査の場合には、前回の所見の指摘を無条件に正しいと見做し、投稿者の反論を考慮せず、指摘を採り入れないことをもって不採択とする傾向も顕著であった。言い換えれば、思い付きによるあら探しと権威主義とが、査読の全般的傾向をなしていた。これらの結果から、少なくとも心理学領域においては、投稿論文査読はふさわしい役割を果たしていないことが、強く示唆された。これはまた、この分野での大学・大学院教員の資質と行動の適格性への疑惑をも惹起する。また隣接する他の分野においても、類似の問題の生じている可能性が示唆される。投稿論文の原則的な全編公開と公開での評価が、解決策となるであろう。
著者
實川 幹朗
出版者
Mind/Soul Explorers
雑誌
心の諸問題論叢 (ISSN:13496905)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.27-61, 2009

学術雑誌の投稿論文審査(査読)が適切に行われていない問題を検討し、改善策を探ることが本論の狙いである。問題の性格を明らかにするため、不採択となった心理学論文二編の内容と査読所見とを検討した。一編は論理的・形式的議論から、脳とは独立の魂の存在を推論するもの、もう一編は特殊な教育現場における心理療法の事例から、治療論と研究方法の見直しとを論じたものであった。対照的な性格を持つこれらの論文にはしかし、着想の斬新さという共通点があった。査読所見を検討したところ、いずれの論文についても、見解の共通点がほとんどなく、不採択理由のすべては誤解に基づくか、不適切なものであった。心理療法の論文については、不採択と結論しながら理由のまったく挙げられない所見や、自分に分からないことをもって理由とした所見が目立った。また再審査の場合には、前回の所見の指摘を無条件に正しいと見做し、投稿者の反論を考慮せず、指摘を採り入れないことをもって不採択とする傾向も顕著であった。言い換えれば、思い付きによるあら探しと権威主義とが、査読の全般的傾向をなしていた。これらの結果から、少なくとも心理学領域においては、投稿論文査読はふさわしい役割を果たしていないことが、強く示唆された。これはまた、この分野での大学・大学院教員の資質と行動の適格性への疑惑をも惹起する。また隣接する他の分野においても、類似の問題の生じている可能性が示唆される。投稿論文の原則的な全編公開と公開での評価が、解決策となるであろう。
著者
實川 幹朗
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.38, no.2, pp.55-74, 2011-05-15 (Released:2017-08-01)
参考文献数
46

"The enclosure of the mind" denotes a trend in the western thought history. It is a combined operation; how, where and in what the mind has been enclosed. Where is the place of the mind? -Our scientific common sense teaches us that it is in the individual brain. This represents a completed feature of "the enclosure of the mind". The opposite idea is the panpsychism, though, it would certainly be felt somewhat "fishy". Under this view, mechanisms such as communications from mind to mind should be natural, which would appear more doubtful. -This "fishiness" is an effect of "the enclosure of the mind" in the modern ages. There has been, however, no successful scientific proof of the "scientific common sense", yet. In a word, this is an opinion that the Zeitgeist has constructed, and the trustworthy appearance derives from the fact that it reflects the ground note of the modern world. In this article, this phenomenon is analyzed from three dimensions: <area system>, <human system>, and <spirit/material system>. They are in the thought history to form "Modern ages of the mind". Intertwined in the meanings, they are logically independent. These factors have produced an apparently bold new phenomenon. But, it can be analyzed as a revival of the traditional human-centrism and the rationalism that characterize the history of the West European thought.
著者
實川 幹朗
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.34, no.2, pp.71-82, 2007-03-25 (Released:2010-02-03)
参考文献数
17
被引用文献数
1 1

The modern psychology and the positivism as a methodology of science in general both emerged hand in hand in the middle of 19th century. At the beginning, they regarded human consciousness as the absolute basis of knowledge, i. e. the “consciousness worship”. The misunderstanding that the consciousness is evidently known led to a false conviction that they could know all that should be known in the world. Meanwhile, natural sciences continued researches in their own way upon their own material evidences. With the decline of introspectionist psychology, the material evidences unnoticedly succeeded the overconfidence in the old evidence of the consciousness. The process opened the way to a belief that the being in the world is exhausted within the realm of positivistic science, i. e. “onto-delusion”. However, the “consciousness worship” is still in effect, because even the positivism based on material evidences cannot avoid depending upon “normal” human consciousness as a premise of objectivity. Psychology has played the central role in this delusional process. We have no right to demand universal validity from the beginning in any method of science.
著者
實川 幹朗
出版者
心の諸問題考究会
雑誌
心の諸問題論叢 (ISSN:13496905)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.35-42, 2004 (Released:2004-09-07)
参考文献数
3

伊藤幹治「日本文化の構造的理解をめざして」を対象とした批評論文。伊藤は、日常の生活の場が宗教的行事にも用いられるなどの民俗的事実から、「ハレとケとが自由に入れかわる」相互転換を「イレカワリの原理」と名づけた。こんにちでは聖俗のきびしい対立を理論的前提に民俗・宗教の分析の行なわれる場合が多いけれど、伊藤の提唱する原理の方が、世界的に見ても実態に合っている。聖俗の対立を和らげての理論化も考えられるが、そうすると、聖と俗を絶対的に区別してきた西欧のキリスト教社会の建て前に外れることとなる。この建て前それ自身もまた一つの民俗的事実なので、無視することはできない。つまり、聖と俗を基本概念とした分析は、いずれにしても民俗的事実に反するほかない。これに対しハレとケは、もともと相互に転換し、相手の契機を内に含むことが、建て前でも実態でも明らかである。そこで、こちらを基本概念にすえて、聖と俗を分析対象とする体制の方が、一貫性の面で優れている。聖と俗を、人為的に固定されたハレとケとして理解するのである。キリスト教の高度な神学や哲学は、本来は転換する民俗の固定化のための努力と理解することができる。伊藤の論旨は、この方向の可能性を開いたものだが、じゅうぶんに展開することとができなかったのが惜しまれる。