著者
小林 澄兄
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1964, no.10, pp.68-69, 1964 (Released:2009-09-04)

この本は、早稲田大学教授長谷川亀太郎氏の新著であって、道徳教育の意味・内容の研究法を明らかにすることを期したものである。
著者
小林 澄兄
出版者
慶應義塾大学
雑誌
哲學 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.309-331, 1958-11

文部省の「教育課程審議会」は、昨年(昭和三十二年)十月道徳教育の時間特設をきめ、また同省の「教材等調査研究会」は、今年三月小・中学校の道徳教育の実施要綱をきめて、それぞれが文部大臣に答申され、いよいよ今年四月の新学年からこの実施要綱にもとづく道徳教育が、特設される時間その他の時間に、各学校で行われることとなった。この既定の事実の前後を通じて、道徳教育に関する世間の論議は、まことにうるさいほどさかんであった。まさにあめいぜんそうの観を呈した。現にそうである。このようなことは、日本の教育史上未曾有の現象だといってよい。マス・コミュニケエションの流行のせいでもあろうが、道徳教育をとくに必要とする事情が日本の社会に現存するからにほかならぬと判断される。それにしても、このようなことは、私の知る限りでは、今日どこの国にも類例はなく、日本にだけある現象であって、欧米の教育界・教育学界などでも、道徳教育に関する多少の論議がないではないが、あまりさわぎ立ててはいない。もっと落ちつきはらっている。どうしてこのようなちがいが出てきたかということも、不思議といえば不思議である。道徳教育の時間特設の必要はないとか、各教科とくに社会科が道徳教育を引受けてやりさえすればよいとか、特設時間において実施要綱にもとづく徳目教授をすることになるであろうから、それはよくないとか、むかしの修身教授にもどって国家主義の道徳教育を復活させる意図であろうとか、現在の政府や与党の「ためにする」道徳教育であるから、教育の中立性を犯すことになるとか、その他いろいろの臆測的論議が全盛をきわめてきている。そのなかで、文部省の考え方ややり方を批難する声の方が一方的に高いようである。私は、以下、これらの問題をめぐって所感を述べるほか、道徳教育のあるべき筋道を明らかにすることを、この論文のねらいとしようと思う。しかし与えられた紙幅に限りがあるから、十分に意をつくすことはできないであろう。