- 著者
-
山根 巌
- 出版者
- 公益社団法人 土木学会
- 雑誌
- 土木史研究 (ISSN:09167293)
- 巻号頁・発行日
- vol.17, pp.175-185, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
- 参考文献数
- 33
1891年 (明治24) 5月、京都市蹴上水力発電所の成功以後、これに刺戟されて国内各地で小規模の水力発電所が多数建設された。明治末期には岐阜県下で、当時としては比較的大規模な2つの水路式水力発電所が建設されて、名古屋へ高圧、遠距離送電が行はれた。名古屋電燈株式会社は、1910年 (明治43) 長良川水力発電所を建設し、導水路には湯之洞水路橋が、煉瓦構造5径間連続アーチ橋として架設された。一方、名古屋電力株式会社 (工事途中の1910年名古屋電燈に吸収合併) は、1911年 (明治44) 木曽川水力発電所を建設したが、導水路には旅足川水路橋として鉄筋コンクリート構造、最大径間23.6mのアーチ橋を完成させた。長良川水力発電所は現在も稼働中であり、古いドイツのジーメンス社製の発電機が保存され、水路橋も補修して利用されている。一方、本曽川水力発電所は1917年 (大正6) に、「八百津水力発電所」と改称きれ、1974年 (昭和49) まで稼働した。旧八百津発電所の建物は、県の文化財に指定されて保存されているが、旅足川水路橋は1954年 (昭和29) の丸山ダム建設に伴い湖底に水没している。これ等の水路橋は、明治末期沼本の構道物が煉瓦構造から鉄筋コンクリート構造への変換の過渡期に建設された。この報文では、これ等の水路橋が略同時期に、相異なる構造で競争して建設された歴史的背景と意義について調査結果を報告する。