著者
山根 巌
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.531-540, 1996-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
18

旅足橋は、木曽川中流の岐阜県八百津町において、丸山ダム [関西電力] の設置に伴う補償代替道路として、木曽川支流旅足川の合流点に、1954年 [昭和29年] に架設された「下路型単径間補剛トラス吊橋」である。支間114m、幅員4.5mで、支間の中央二分の一部分の補剛トラス上弦材を主ケーブルが兼用した、合理的な吊橋である。この吊橋は、アメリカの吊橋の大家D.B.Steinman博士の設計により、1926年ブラジルに架設された南米最大の吊橋Florianopolis橋の型式を導入した特異な吊橋であり、世界で5橋架設されているが、我が国では唯一の型式である。現在は、国道418号線のバス路線の一部として、地域交通の要となっているが、洪水防禦を目的とした新丸山ダム [高さ122.5m] の嵩上げ工事の為に、2002年 [平成14年] には撤去の予定となっている。ここでは、旅足橋のこの型式への選定の背景と、吊橋としての歴史的、技術的な意義を検討して報告する。
著者
山根 巌
出版者
Japan Society of Civil Engineers
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.325-336, 2000-05-01 (Released:2010-06-15)
参考文献数
31
被引用文献数
2

明治末期における京都での鉄筋コンクリート橋は、有名な田辺朔郎による明治36 (1903) 年の琵琶湖疎水に架けた日ノ岡の「孤形桁橋」に始まるが、明治38年から京都市の井上秀二により、高瀬川で4橋の小規模鉄筋コンクリート橋群が架設された。一方京都府においても、明治41 (1908) 年原田碧が長崎市から転勤して来て以後多数の鉄筋コンクリート橋が架設されたが、その代表は鞍馬街道の「市原橋」と「二之瀬橋」と言えよう。これ等の橋はメラン式を発展させた日本的な考え方の軸組方式で「鉄骨コンクリート構造」のアーチ橋とトラス橋として建設されている。また明治38 (1905) 年日比忠彦により導入されたモニエ式アーチ・スラブが、I字鉄桁に用いられて「鉄筋僑」と呼ばれ大正期末迄に多数建設され、市原橋の側径間にも採用されている。明治末期の京都での鉄筋コンクリート橋は、府市共にメラン式等の試験的な小規模の橋梁が多かったが、大正2 (1913) 年に完成した柴田畦作による、鴨川での鉄筋コンクリートアーチ橋の四条及び七条大橋の架設で、鉄筋コンクリート橋は大規模化し多様化して、日本の鉄筋コンクリート橋の発展に大きな影響を与えた。こうした明治末期における京都での鉄筋コンクリート橋の導入と発展の特徴について、調査した結果を報告する。
著者
山根 巌
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
no.20, pp.325-336, 2000

明治末期における京都での鉄筋コンクリート橋は、有名な田辺朔郎による明治36 (1903) 年の琵琶湖疎水に架けた日ノ岡の「孤形桁橋」に始まるが、明治38年から京都市の井上秀二により、高瀬川で4橋の小規模鉄筋コンクリート橋群が架設された。<BR>一方京都府においても、明治41 (1908) 年原田碧が長崎市から転勤して来て以後多数の鉄筋コンクリート橋が架設されたが、その代表は鞍馬街道の「市原橋」と「二之瀬橋」と言えよう。これ等の橋はメラン式を発展させた日本的な考え方の軸組方式で「鉄骨コンクリート構造」のアーチ橋とトラス橋として建設されている。また明治38 (1905) 年日比忠彦により導入されたモニエ式アーチ・スラブが、I字鉄桁に用いられて「鉄筋僑」と呼ばれ大正期末迄に多数建設され、市原橋の側径間にも採用されている。<BR>明治末期の京都での鉄筋コンクリート橋は、府市共にメラン式等の試験的な小規模の橋梁が多かったが、大正2 (1913) 年に完成した柴田畦作による、鴨川での鉄筋コンクリートアーチ橋の四条及び七条大橋の架設で、鉄筋コンクリート橋は大規模化し多様化して、日本の鉄筋コンクリート橋の発展に大きな影響を与えた。<BR>こうした明治末期における京都での鉄筋コンクリート橋の導入と発展の特徴について、調査した結果を報告する。
著者
山根 巌
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木史研究 (ISSN:09167293)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.175-185, 1997-06-05 (Released:2010-06-15)
参考文献数
33

1891年 (明治24) 5月、京都市蹴上水力発電所の成功以後、これに刺戟されて国内各地で小規模の水力発電所が多数建設された。明治末期には岐阜県下で、当時としては比較的大規模な2つの水路式水力発電所が建設されて、名古屋へ高圧、遠距離送電が行はれた。名古屋電燈株式会社は、1910年 (明治43) 長良川水力発電所を建設し、導水路には湯之洞水路橋が、煉瓦構造5径間連続アーチ橋として架設された。一方、名古屋電力株式会社 (工事途中の1910年名古屋電燈に吸収合併) は、1911年 (明治44) 木曽川水力発電所を建設したが、導水路には旅足川水路橋として鉄筋コンクリート構造、最大径間23.6mのアーチ橋を完成させた。長良川水力発電所は現在も稼働中であり、古いドイツのジーメンス社製の発電機が保存され、水路橋も補修して利用されている。一方、本曽川水力発電所は1917年 (大正6) に、「八百津水力発電所」と改称きれ、1974年 (昭和49) まで稼働した。旧八百津発電所の建物は、県の文化財に指定されて保存されているが、旅足川水路橋は1954年 (昭和29) の丸山ダム建設に伴い湖底に水没している。これ等の水路橋は、明治末期沼本の構道物が煉瓦構造から鉄筋コンクリート構造への変換の過渡期に建設された。この報文では、これ等の水路橋が略同時期に、相異なる構造で競争して建設された歴史的背景と意義について調査結果を報告する。