著者
岩間 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100103, 2017 (Released:2017-05-03)

1.はじめに 発表者は、日本における産業地域社会の形成と内部構造をまとめ、2009年に公刊した。企業城下町に特色を持つといわれる日本において明らかとなったことは、世界の一般性に通じるのであろうか。この解明には、最小限、世界の産業革命発祥地で近代工業の原点である、イギリスのマンチェスターとの比較研究が重要となる。マンチェスターの事例研究については、2016年日本地理学会春季学術大会(早稲田大学)において発表した。本研究の目的は、マンチェスターと、同じ綿工業からスタートした尼崎、ならびに日本の主要な産業地域社会との比較研究より、工業の発展に伴う産業地域社会の形成と内部構造、内的要因、内部構造の発達モデルと発達メカニズムを明らかにする。 1極型とは事業所の事務所を中心に生産、商業・サ-ビス、居住の3機能が1事業所1工場で構成されるものをさす。1核心型とは、日本においては1事業所当たり従業員が1900年代は2000名以上、1920年代からは4000名以上とした。マンチェスターは1760年代からと日本より120年早いため、一応、1000名以上とする。2.産業地域社会の形成と内部構造 マンチェスターと尼崎の工業地域の発達段階は、両地域とも、近代工業創設期から形成期、確立期、成熟期、後退期、再生・変革期の過程を歩んだ。工業地域社会の内部構造は、一極型から多極型の単一工業地域、一核心・多極型から二核心・多極型の複合工業地域、多核心・多極型の総合工業地域の発達段階を経た(表1)。これらは、日本で捉えた場合も同じ展開である(表2)。 産業地域社会の形成は、3段階を経る。第1に、産業革命時の未熟な段階にあっては、商業・金融資本などの支援を必要とするため、工業地域社会は既存産業地域社会に付随して成長した。工業地域社会は、各企業の1極型が単位となって事務所を中心に工場の生産機能、商業・サービス機能は金融・商業のある市街地に依存し、居住機能は旧市街地・工場周辺・郊外に展開した。日本の事例では、既存集落からでは岡谷、相生など、都市部では芝浦、尼崎、宇部、四日市、浜松などがこれに該当する 第2に、産業資本が確立すると、マンチェスターのトラフォード地区の工業団地に象徴されるように、新開地に独自の工業地域社会を形成した。そこには、一極型を基本とする単一、複合、総合工業地域を形成し、事務所を中心とする工場(群)の生産地域、その周辺に商業地域、外方に住宅地域からなる、同心円状の工業地域社会を展開した。この独自に工業地域社会が展開した形態は、日本では企業城下町、臨海コンビナートにおいて典型的である。即ち、新開地に工業が立地した八幡、室蘭、日立、豊田などの企業城下町、川崎、水島、君津などの臨海コンビナートが該当する。 第3に、工業地域社会の発展に伴って、商業・サービス機能地域に行政、商店街、関連産業などの関連地域社会が付帯し、工業を中心とした産業地域社会、工業都市の性格を強めた。 以上のように、発展した時代と3機能の混在状況は異なるが、マンチェスター、尼崎・日本の工業は、基本的に、同様な産業地域社会の形成メカニズムとその内部構造を展開して共通し、世界の一般性を有する。日本において企業城下町として特異に映ったのは、日本が導入した1880年代当時、マンチェスターは成熟期の段階に達していた。この120年のギャップに追い着くため、日本は官営、財閥、大企業の形態を優先させ、軽・重化学工業、3機能からなる工業地域社会の形態、工業地帯の造成にいたるまで精選して一気に導入を図ったことに起因する。これは、後発型の工業国に共通する傾向といえる。   3.工業地域社会形成の内的要因 工業地域社会形成の内的要因は経営者および管理・技術集団である。特に、工業においては機械を発明し、機械化を成功させ、管理・技術面を推進させた管理・技術集団の存在と役割が重要である。 以下、後発型で短期間に工業国となったが故に解明が容易であった日本の分析をもって、工業地域社会の発達モデル、発達メカニズムを示す。   4.工業地域社会の内部構造発達モデル 工業地域社会の中心に位置したのが事業所の事務所であった(図1)。表2に基づいて、日本における工業地域社会形成の内部構造発達モデルを作製した(図2)。   5.工業地域社会における内部構造の発達メカニズム 工業地域社会における内部構造の発達メカニズム(工業都市化)は、企業の生産機能拡大に伴う3機能の作用によって生じる「重層・分化のメカニズム」である。その結果、企業の事務所を中心に生産地域、商業地域、住宅地域の圏構造に分化した。   参考文献 岩間英夫2009.『日本の産業地域社会形成』古今書院.
著者
岩間 英夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100010, 2013 (Released:2014-03-14)

1.はじめに 東海村は、東日本大地震の津波で東海原子力第2発電所の発電機3基のうち1機が冠水した。外部電源が復旧したため、かろうじて危機を回避できたが、人災が起こっても不思議ではなかった。 発表者は、これまで鉱工業を中心とする産業地域社会形成の研究を行なってきた。本研究の目的は、その視点から、日本の原子力産業のメッカである茨城県東海村を研究対象に、原子力産業地域社会の形成とその内部構造を解明し、かつ原子力産業との問題点を指摘することである。2.東海村原子力産業地域社会の形成 まず、東海村への進出決定の背景を捉える。次に、原子力産業の集積では、1957年8月、日本原子力研究所東海研究所において日本最初の原子の火が灯った。1959年3月には原子燃料公社東海精錬所が開所し、核燃料の開発、使用済み燃料の再処理、廃棄物の処理処分の技術開発を本格化した。1962年、国産1号炉(JRR-3)が誕生した。1966年7月日本原子力発電㈱がわが国初の商業用発電炉である東海発電所の営業運転を開始した。1967年4月、大洗町に高速増殖炉用のプルトニウム燃料開発・廃棄物処理の実用化を目指した大洗研究所、1985年4月、那珂町(現、那珂市)に那珂核融合研究所が発足した。2005年10月、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構が統合して「独立行政法人日本原子力研究開発機構」となり、本社が移設された。 これによって、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中核に18の原子力施設が集積、4,386人の職員が研究開発・運営する「日本の原子力産業のメッカ」となった。<BR> 2013年5月現在、東海村の人口は3万7883人で、東海村発足時からは約50年で約3.3倍に増加した。<BR>3.東海村原子力産業地域社会の内部構造 日本原子力研究所の内部構造は、国道245号線に沿った事務所を中心に、臨海部の砂丘地帯に生産(研究開発)機能、国道245号線から原研通りに沿って阿漕ヶ浦クラブ、原子力センター、諸体育施設、原研診療所のサービス機能、そして最大規模の長堀住宅団地、荒谷台住宅団地からなる居住機能が東海駅に近接して造成された。住宅団地の中央部には、商業機能として生活協同組合の店舗・売店が設けられた。このように、日本原子力研究所はその事務所を中心に生産、商業・サービス、居住の3機能からなる1極型圏構造を展開した。同様に、原子燃料公社東海精錬所、東海原子力発電所にも1極型圏構造が展開した。これらの3公社によって、東海村の原子力産業の内部構造は多極連担型となった。 2005年に統合すると、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中心に、大洗研究所、那珂研究所も含めて、広域にわたる一大原子力研究開発センターを形成した。その内部構造は、日本唯一の原子力産業による総合的研究開発の1核心(多極重合)型圏構造となった。 これらの結果、東海村の原子力産業地域社会は、日本原子力研究開発機構本社を中核とする、海岸部と村の外縁部に生産地域、村の中央部に位置する常磐線東海駅を中心とする商業地域、商業地域に隣接して公営住宅団地や企業社宅、そして周辺に拡大する職員の持ち家と日立市・ひたちなか市の工業都市化による宅地化が重なって住宅地域が形成した。4.まとめ(原子力産業地域社会の形成と問題点) その結果次のことが明らかとなった。 1. 日本唯一の原子力産業による総合的研究開発型の1核心(多極重合)型圏構造を形成した。しかし、 これは一般的産業地域社会の内部構造であって、核の危険性と安全性を大前提として配慮した原子力産業地域社会の展開とは言えない。 2.1956年の候補地選定条件においても、津波に関しては全く触れていなかった。アメリカからの原子炉導入を含めた安全神話が先行し、日本の自然環境の特性をも踏まえた日本人による原子力の主体的研究が欠落したまま今日に至っている。 3.東日本大震災後義務づけられた避難区域で換算すると、20㎞圏内の警戒区域で人口約90万人が、半径120㎞圏に放射能が拡散したら、首都圏を含む約2000万人が避難しなければならない。もはや避難が現実的に無理であるとするなら、東海村は原発などの危険施設は除去して対応する段階にきている。
著者
岩間 英夫
出版者
公益社団法人 東京地学協会
雑誌
地学雑誌 (ISSN:0022135X)
巻号頁・発行日
vol.106, no.1, pp.87-101, 1997-02-25 (Released:2009-11-12)
参考文献数
31

This study attempts to identify internal formation processes of the Muroran steel industrial community by complex steel mills in Hokkaido, the first iron-works of private enterprise in Japan.It then constracts an internal formation process of single manufacturing communities by comparing Muroran with the Kamaishi iron mining-manufacturing region in Iwate Prefecture, the Ube coal mining-manufacturing region in Yamaguchi Prefecture, and the Hitachi copper mining-electrical manufacturing region in Ibaraki Prefecture.The results of the study are summarized as follows.1) Internal formation processes of the Muroran steel industrial community has lead to the following results.1. Muroran started its business as a modern steel industry. Manufacturing community of the Nippon Steel Works consists of a company community and the surrounding affiliated community. A company community of the Nippon Steel Works formed a unipolar concentric zonal structure, in which a productive, a commercial service, and a residential functions were located around the office. The Muroran ironworks formed manufacturing community of a unipolar zonal structure. A unipolar concentric zonal structure corresponds with the cases of Kamaishi, Ube and Hitachi.2. Muroran formed manufacturing city of multipolar zonal structure with two company communities.3. When the system of making steel from are in the same plant was introduced, the Muroran iron works community grew into twice the size while maintaining a unipolar concentric zonal structure. It is termed an expanded unipolar concentric zonal structure. Muroran formed manufacturing city of a multi-expanded polar concentric zonal structure with two company communities.4. A expanded polar concentric zonal structure of the Muroran iron works grew and included a unipolar concentric zonal structure of the Nippon Steel Works. It is formed a core concentric zonal structure. By the enlargement of a productive functions, commercial service and residential districts was spread into the surrounding community. As a result, Muroran formed large manufacturing city of a core concentric zonal structure.5. The steel industry declined. But residential districts was expand into the surrounding community, because both employees and retired peoples established their own houses on the outskirts, resulting in the expansion of urbanized area. The affiliated community on the central lowland grew into the Central Business District. Muroran formed city.6. The above analyses lead to an internal structure model of the Muroran single miningmanufacturing community as proposed in Fig. 5.2) The comparison of Muroran with the Kamaishi, Ube and Hitachi has lead to the following results.1. Whereas Ube and Hitachi have developed from a unipolar to a multipolar and to a core concentric zonal structure, steel industry communities experienced different stages. Kmaishi, restricted by topographical features, stays in a unipolar concentric zonal structure, Whereas Muroran with a enough space developed from a unipolar to a core concentric zonal structure.2. A expanded polar concentric zonal structure was caused by the establishment of the system to produce steel from ore in the same plant. This structure shares an essentially same character with a unipolar concentric zonal structure. Therefore, general internal formation process of single manufacturing communities developed basically from a unipolar concentric zonal structure, to a multipolar and to a core concentric zonal structure.3. The internal formation process model of a single manufacturing community by complex steel mills is proposed in Fig. 6.4. An internal formation process of a single manufacturing community by a steel industry is summarized into Fig. 7-A, while the model of complex steel mills is proposed in Fig. 7-B.
著者
岩間 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.はじめに<br> 東海村は、東日本大地震の津波で東海原子力第2発電所の発電機3基のうち1機が冠水した。外部電源が復旧したため、かろうじて危機を回避できたが、人災が起こっても不思議ではなかった。<br> 発表者は、これまで鉱工業を中心とする産業地域社会形成の研究を行なってきた。本研究の目的は、その視点から、日本の原子力産業のメッカである茨城県東海村を研究対象に、原子力産業地域社会の形成とその内部構造を解明し、かつ原子力産業との問題点を指摘することである。<br><br>2.東海村原子力産業地域社会の形成<br> まず、東海村への進出決定の背景を捉える。次に、原子力産業の集積では、1957年8月、日本原子力研究所東海研究所において日本最初の原子の火が灯った。1959年3月には原子燃料公社東海精錬所が開所し、核燃料の開発、使用済み燃料の再処理、廃棄物の処理処分の技術開発を本格化した。1962年、国産1号炉(JRR-3)が誕生した。1966年7月日本原子力発電㈱がわが国初の商業用発電炉である東海発電所の営業運転を開始した。1967年4月、大洗町に高速増殖炉用のプルトニウム燃料開発・廃棄物処理の実用化を目指した大洗研究所、1985年4月、那珂町(現、那珂市)に那珂核融合研究所が発足した。2005年10月、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構が統合して「独立行政法人日本原子力研究開発機構」となり、本社が移設された。 これによって、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中核に18の原子力施設が集積、4,386人の職員が研究開発・運営する「日本の原子力産業のメッカ」となった。<BR><br> 2013年5月現在、東海村の人口は3万7883人で、東海村発足時からは約50年で約3.3倍に増加した。<BR><br><br>3.東海村原子力産業地域社会の内部構造<br> 日本原子力研究所の内部構造は、国道245号線に沿った事務所を中心に、臨海部の砂丘地帯に生産(研究開発)機能、国道245号線から原研通りに沿って阿漕ヶ浦クラブ、原子力センター、諸体育施設、原研診療所のサービス機能、そして最大規模の長堀住宅団地、荒谷台住宅団地からなる居住機能が東海駅に近接して造成された。住宅団地の中央部には、商業機能として生活協同組合の店舗・売店が設けられた。このように、日本原子力研究所はその事務所を中心に生産、商業・サービス、居住の3機能からなる1極型圏構造を展開した。同様に、原子燃料公社東海精錬所、東海原子力発電所にも1極型圏構造が展開した。これらの3公社によって、東海村の原子力産業の内部構造は多極連担型となった。<br> 2005年に統合すると、日本原子力研究開発機構の本社事務所を中心に、大洗研究所、那珂研究所も含めて、広域にわたる一大原子力研究開発センターを形成した。その内部構造は、日本唯一の原子力産業による総合的研究開発の1核心(多極重合)型圏構造となった。<br> これらの結果、東海村の原子力産業地域社会は、日本原子力研究開発機構本社を中核とする、海岸部と村の外縁部に生産地域、村の中央部に位置する常磐線東海駅を中心とする商業地域、商業地域に隣接して公営住宅団地や企業社宅、そして周辺に拡大する職員の持ち家と日立市・ひたちなか市の工業都市化による宅地化が重なって住宅地域が形成した。<br><br>4.まとめ(原子力産業地域社会の形成と問題点)<br> その結果次のことが明らかとなった。<br> 1. 日本唯一の原子力産業による総合的研究開発型の1核心(多極重合)型圏構造を形成した。しかし、 これは一般的産業地域社会の内部構造であって、核の危険性と安全性を大前提として配慮した原子力産業地域社会の展開とは言えない。<br> 2.1956年の候補地選定条件においても、津波に関しては全く触れていなかった。アメリカからの原子炉導入を含めた安全神話が先行し、日本の自然環境の特性をも踏まえた日本人による原子力の主体的研究が欠落したまま今日に至っている。<br> 3.東日本大震災後義務づけられた避難区域で換算すると、20㎞圏内の警戒区域で人口約90万人が、半径120㎞圏に放射能が拡散したら、首都圏を含む約2000万人が避難しなければならない。もはや避難が現実的に無理であるとするなら、東海村は原発などの危険施設は除去して対応する段階にきている。
著者
岩間 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.はじめに</b> <br>発表者は、日本における産業地域社会の形成と内部構造をまとめ、2009年に公刊した。企業城下町に特色を持つといわれる日本において明らかとなったことは、世界の一般性に通じるのであろうか。この解明には、最小限、世界の産業革命発祥地で近代工業の原点である、イギリスのマンチェスターとの比較研究が重要となる。マンチェスターの事例研究については、2016年日本地理学会春季学術大会(早稲田大学)において発表した。<u>本研究の目的は、マンチェスターと、同じ綿工業からスタートした尼崎、ならびに日本の主要な産業地域社会との比較研究より、工業の発展に伴う産業地域社会の形成と内部構造、内的要因、</u>内部構造の発達モデルと発達メカニズム<u>を明らかにする。</u> 1極型とは事業所の事務所を中心に生産、商業・サ-ビス、居住の3機能が1事業所1工場で構成されるものをさす。1核心型とは、日本においては1事業所当たり従業員が1900年代は2000名以上、1920年代からは4000名以上とした。マンチェスターは1760年代からと日本より120年早いため、一応、1000名以上とする。<br><b>2.産業地域社会の形成と内部構造</b> <br>マンチェスターと尼崎の工業地域の発達段階は、両地域とも、近代工業創設期から形成期、確立期、成熟期、後退期、再生・変革期の過程を歩んだ。工業地域社会の内部構造は、一極型から多極型の単一工業地域、一核心・多極型から二核心・多極型の複合工業地域、多核心・多極型の総合工業地域の発達段階を経た(表1)。これらは、日本で捉えた場合も同じ展開である(表2)。 産業地域社会の形成は、3段階を経る。第1に、産業革命時の未熟な段階にあっては、商業・金融資本などの支援を必要とするため、工業地域社会は既存産業地域社会に付随して成長した。工業地域社会は、各企業の1極型が単位となって事務所を中心に工場の生産機能、商業・サービス機能は金融・商業のある市街地に依存し、居住機能は旧市街地・工場周辺・郊外に展開した。日本の事例では、既存集落からでは岡谷、相生など、都市部では芝浦、尼崎、宇部、四日市、浜松などがこれに該当する 第2に、産業資本が確立すると、マンチェスターのトラフォード地区の工業団地に象徴されるように、新開地に独自の工業地域社会を形成した。そこには、一極型を基本とする単一、複合、総合工業地域を形成し、事務所を中心とする工場(群)の生産地域、その周辺に商業地域、外方に住宅地域からなる、同心円状の工業地域社会を展開した。この独自に工業地域社会が展開した形態は、日本では企業城下町、臨海コンビナートにおいて典型的である。即ち、新開地に工業が立地した八幡、室蘭、日立、豊田などの企業城下町、川崎、水島、君津などの臨海コンビナートが該当する。 第3に、工業地域社会の発展に伴って、商業・サービス機能地域に行政、商店街、関連産業などの関連地域社会が付帯し、工業を中心とした産業地域社会、工業都市の性格を強めた。 以上のように、発展した時代と3機能の混在状況は異なるが、マンチェスター、尼崎・日本の工業は、基本的に、同様な産業地域社会の形成メカニズムとその内部構造を展開して共通し、世界の一般性を有する。日本において企業城下町として特異に映ったのは、日本が導入した1880年代当時、マンチェスターは成熟期の段階に達していた。この120年のギャップに追い着くため、日本は官営、財閥、大企業の形態を優先させ、軽・重化学工業、3機能からなる工業地域社会の形態、工業地帯の造成にいたるまで精選して一気に導入を図ったことに起因する。これは、後発型の工業国に共通する傾向といえる。 &nbsp; <b><br>3.工業地域社会形成の内的要因</b> <br>工業地域社会形成の内的要因は経営者および管理・技術集団である。特に、工業においては機械を発明し、機械化を成功させ、管理・技術面を推進させた管理・技術集団の存在と役割が重要である。 以下、後発型で短期間に工業国となったが故に解明が容易であった日本の分析をもって、工業地域社会の発達モデル、発達メカニズムを示す。 <b>&nbsp;</b> <br><b>4.工業地域社会の内部構造発達モデル <br></b> 工業地域社会の中心に位置したのが事業所の事務所であった(図1)。表2に基づいて、日本における工業地域社会形成の内部構造発達モデルを作製した(図2)。 &nbsp; <br> <b>5.工業地域社会における内部構造の発達メカニズム<br> </b> 工業地域社会における内部構造の発達メカニズム(工業都市化)は、企業の生産機能拡大に伴う3機能の作用によって生じる「重層・分化のメカニズム」である。その結果、企業の事務所を中心に生産地域、商業地域、住宅地域の圏構造に分化した。 <b>&nbsp;</b> <br><br>参考文献 岩間英夫2009.『日本の産業地域社会形成』古今書院.&nbsp;
著者
岩間 英夫
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100148, 2016 (Released:2016-04-08)

1.はじめに 発表者は、日本における産業地域社会の形成と内部構造をまとめ、2009年に研究成果を公刊した。本研究では、マンチェスターを対象に、世界の産業革命発祥地における産業地域社会の形成と内部構造を解明する(本時)。その後、マンチェスターと日本における産業地域社会の比較研究から、近代産業の発展に伴う産業地域社会の形成メカニズムとその内部構造を明らかにする(次回)。 なお1極型とは、事業所の事務所を中心に生産、商業・サ-ビス、居住の3機能が1事業所1工場で構成された、産業地域社会の構造を意味する。  2.マンチェスターの産業地域社会形成と内部構造 Ⅰ 産業革命による近代工業形成期(1760-1782年) 17世紀末にインド、18世紀に北アメリカから綿花が輸入されたことにより、マンチェスターの主要産業は毛織物から綿工業に転換した。マンチェスターでは、地元のハーグリーブスによるジェニー紡績機の発明(1765年)などによって産業革命が生じた。その結果、旧市街地における商業資本の問屋制家内工業が衰退した一方で、水運沿いでは産業資本家による小規模な工場制機械工業が発展した。これによりマンチェスターは、綿工業による一極型から、多極型の単一工業地域へと変容した。綿工業地域社会の内部構造は、産業資本家の各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は旧市街地に依存、産業資本家(中産階級)の居住機能は旧市街地周辺、また労働者の居住機能は旧市街地の工場周辺(スラム街)に、それぞれ展開した。1543年におけるマンチェスターの推定人口は約2,300人であったが、1773年には43,000人となった。Ⅱ 近代工業確立期(1783-1849年) マンチェスターでは、綿工業の国内外市場拡大に合わせて、商業・金融資本が台頭した。綿工業は一核心多極型から二核心多極型の複合工業地域、1816年以降は綿工業による多核心多極型の総合工業地域を確立した。マンチェスターは「コットン=ポリス」、「世界最初の工場町」と呼ばれた。同市は、商業・金融資本の市街地を中心に、周辺部に工業地域、郊外にかけて住宅地域が同心円状に展開した。工業地域社会の内部構造は、各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は市街地に依存、市街地と工場周辺に労働者の居住機能、産業資本家の居住機能は煙害を避けて郊外の鉄道沿線に移転・拡大した。1821年における人口は、129,035人に増加した。 Ⅲ 近代工業成熟期(1850年~1913年)  世界への市場拡大を背景にマンチェスターは国際的商業センターの性格を強くした。また、第二次産業革命が始動し、マンチェスターは多業種からなる多核心多極型の総合工業地域となった。市街地は再開発され、銀行、保険、商館、鉄道駅舎や市庁舎などが建てられて、中枢業務地区(CBD)を形成した。その結果、人口分布のドーナツ化とスプロール化が顕著となった。工業地域社会の内部構造は、各事務所を中心に、工場の生産機能、商業・サービス機能は市街地に依存、煙害を避けて労働者の居住機能は郊外に、産業資本家の居住機能は鉄道沿線のさらに外縁部に移転・拡大して展開した。また、1894年にマンチェスター運河の完成により、国際港と英国初の工業団地(トラフォードパーク)が出現した。1901年、マンチェスターの人口は607,000人に急増した。 Ⅳ 工業衰退期(1914~1979年) マンチェスターでは、トラフォードパークにアメリカ系企業が進出したことによって、自動車や航空機産業などの第2次産業革命(重化学工業)が促進され、総合工業による多核心多極型を維持した。しかし、第二次世界大戦後には1,000以上の工場が閉鎖され、工業が後退した。工業地域社会の内部構造をみると、空き工場が増え、ゴーストタウン化した。人口は1931年の751,292人をピークに、1981年には437,660人まで減少した。 <BR>Ⅴ 再生期 (1980年~ ) 1990年代にイタリア人街で始まった市民による都市再生運動により、マンチェスターは再生した。再生の根底には、産業革命時と相通じる主体的開発の精神があった。従来の商業と交易に加えて、金融機関や新聞社・テレビ局などのメディア企業、学術機関、研究所などが集中し、街は勢いを取り戻した。空洞化した都心部には移民が集住し、多民族都市の性格を濃くした。人口は、2011年現在で約49万人である。 <BR>  3.まとめ参考文献  岩間英夫2009.『日本の産業地域社会形成』古今書院. Alan Kidd 1993. Manchester A History. Carnegie Publishing.