著者
川越 泰博
出版者
錦正社
雑誌
軍事史学 (ISSN:03868877)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.p26-34, 1975-06
著者
川越 泰博
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.82, pp.61-94, 2015-10-30

明の太祖洪武帝が崩御すると、国都南京に築造された孝陵に埋葬された。本来はここ南京に以後の皇帝たちの陵墓も置かれるはずであったが、洪武帝亡き後起きた靖難の役に勝利すると、太宗永楽帝は北京に遷都し、その陵墓長陵をも北京西北の昌平県の天寿山に建造した。以後の皇帝たちも歴代それに倣い、天寿山にその陵墓を造築した。このように、皇帝陵は南京と北京に分岐したが、ともに共通していることは、それぞれの皇帝陵のために護陵衛が付設されたことである。本来、文字通り、陵寝を保護する衛所という役割を課せられた護陵衛であるが、宣徳年間になると、親軍衛・京衛・外衛と同じように、鄭和の西征、兀良哈征討のような外征、鄧茂七の乱や四牌楼の戦いのような中国内部で起きた変乱にその鎮圧軍として出軍した。それは、宣宗宣徳帝が王府護衛や護陵衛のような特殊衛所の軍事力をも取り込み、それを一般衛所化しようとしたためである。その結果、護陵衛の軍事活動の範囲は飛躍的に拡大した。
著者
川越 泰博
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
no.77, pp.19-44, 2013-10-10

本論は遣明使節の一人として明代の中国に渡った五山派の僧侶笑雲の手になる入明記を主要な題材として,東アジアにおける疎通と交流の一端をいささか検討した,その結果報告である。『笑雲入明記』の撰者笑雲瑞訢は,臨済宗五山派の僧で,晩年は相国寺や南禅寺の住持を歴任した。笑雲が入明したのは,景泰4 年(享徳2 ・1453)のことで,東洋允澎を正使とする遣明使節団の1 号船に従僧として乗船し,翌年に帰朝した。このとき往還した京都-北京間での見聞を記した旅行記が,この『笑雲入明記』であるが,これは, 1 号天竜寺船に乗り込み,旅の様子や明側との対応の様子を記録した,帰朝後の復命報告書でもあった。『笑雲入明記』は,明側との交渉記録と笑雲自身の私的な交流記録のいずれにも偏奇していない良さをもっていて,笑雲自身,従僧として書記官的な役割を担ったこともきわめて剴切なことであったと評価できる。しかしながら,使節団という組織体と笑雲個人との狭間で,揺れ動き,黙して語らなかった事実もまた数多あった。たとえば,遣明使節が起こした諸々の事件や騒擾については全くふれていない。復命書としての性格を有したが故に記録にできなかったことも多々ある。ここに『笑雲入明記』の記録としての限界があった。