著者
戸倉 英美 葛 暁音
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1998

本研究は我が国の雅楽が、中国では失われた唐代音楽の原型をかなりの程度保存していることに着目し、これを資料に、中国文学史に於けるいくつかの重要課題の解明を試みたものである。主要な研究方法は、雅楽に関する戸籍・古楽譜・絵画・面・衣装などあらゆる資料を精査し、中国側の文献の記述と対照することである。平成9年度および10年度、葛暁音・北京大学中文系教授(平成9年4月より11年3月まで東京大学大学院客員教授)を共同研究者に迎えて研究を進めた結果、葛教授が離任するまでに中国語で30万字に及ぶ草稿『日本雅楽和隋唐楽舞-隋唐五代楽府文学背景研究-』を完成させたほか、昨年度は2篇、本年度はさらに2篇の論文が中国の学術雑誌に掲載された。本年度は、11年5月より6月に戸倉が北京を訪問、12年2月から3月は葛教授が来日し、各自の研究成果をもとに草稿の完成・出版を目指して徹底した議論を行った。しかし新たに大きな課題が発見されたため、12年度内の共著出版はやや困難な情勢となった。平成10年秋、筆者は研究の過程で、ケンブリッジ大学教授L.ピッケン博士とそのグループが日本雅楽と唐楽に関する極めて専門的な研究を行っているという情報を得た。平成11年7月、筆者はケンブリッジを訪問し、初歩的な調査を行った結果、欧米ではすでに1950年代より、音楽専門化による日本雅楽の研究が始まっている事実を知った。彼らの研究成果は、これまで日中の専門化によってその当否を十分検討されたことがなく、しかもその主張には日中の学者の見解と大きく異なる点が少なくない。そこで欧米の研究成果を検討し、我々の研究を全面的に見直すことが不可欠であると痛感した。同大学図書館において資料を収集し、帰国後は鋭意読解を進め、研究の早期完成を目指している。
著者
戸倉 英美
出版者
東京大学東洋文化研究所
雑誌
東洋文化研究所紀要 (ISSN:05638089)
巻号頁・発行日
no.102, pp.p373-519, 1987-02

本文分析漢魏六朝各代詩賦裏所看到的「自然描寫」的欒化,而研討在這些時代裏所産生的一系列把「自然空間」形象化的方式,和其他欒化過程。各章所討論的主要問題,如下。(1)漢賦:漢賦裏排列許多事物,鳥獸草木,城邑宮苑,無一不擧,而相反地,對於「内無一物」的「空間」,漢賦裏毫無表現。漢賦作者似乎認爲:缺落具体事物的「空間」,完全没有意義。(2)古詩:漢代古詩裏所看到的主題是「時間枉過」的悲哀,却找不到「遙隔千里」的寂寞。他們描寫自然時,只有「自然是隨時欒化」的觀點,但是缺乏「自然是構成空間」的觀點。(3)曹植:曹詩是中國文學史上第一次從上述「自然是構成空間」的觀點來描寫自然(王粲可視爲他的先驅)。但是他經常表現自然界的激烈運動,大有要擾乱這些「空間」的意味,總之,似乎不能安身於「空間」。(4)阮籍:阮詩表現出一種比曹詩更廣大而更空虚的寂寞空間,但是他對于「空間」的感覺,還是不能脱離消極的意義。(5)陶淵明:他一方面繼承阮詩的寂寞空間,但?一方面,開拓出一種自己可以安身的自然空間。在此,「空間」獲得了一些積極意義。(6)謝靈運:大謝詩還没有直接表現「空間」。但他覺察到有一些缺乏具体性的氣雰情緒,比如「清暉・餘清」,而企圖把它形象化。結果開闢出一種跟曹阮不同的新的空間描寫。(7)謝?:小謝詩站在一種遠近感覺上,把大謝所未直寫的「空間」,更積極地,更直接地表現出来。由此,他的詩很接近於懐有廣闊「空間」的唐詩風韻。據此可見,從一種充満萬物,毫無「空間」的漢賦開始,發展到後漢魏晋六朝,詩人之間逐漸釀成「空間有意義」的感覺,從而對於「空間之美」的審美感和關于「遠近之感」的表現一歩一歩地擴大開来,最後到了唐代,終于出現了一大套遠近凝聚,雄偉遼闊的山川美景。唐詩所達到的境界,可以説是反映了一種「世界是無限」的觀念。
著者
戸倉 英美 LI pengfei LI Pengfei
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2007

本研究は、中国の古典小説が日本文学にどのように受容されたかを、変身の物語という視点から考察するものである。その特色は、唐代.明代、及び清代の『聊斎志異』という、三つの時代の変身譚と、それぞれを受容して作られた日本の作品とを比較することで、両国文学の比較研究を、より高い精度で、総合的包括的に行う点にある。本年度は、昨年度の成果である、六朝・隋唐の小説と、『今昔物語』を中心とする平安時代の文学との関係について、さらに内容を拡充し、「魏晋六朝隋唐小説在日本的伝播和演変論考」として、中国杭州市で開催された中国古代小説第四届国際研討会において、LI,Pengfeiが発表した。本論は高い評価を受け、中国の学術雑誌に掲載を要請されている。また『雨月物語』の「夢応の鯉魚」「蛇性の淫」、中島敦の「山月記」、太宰治の「清貧譚」「竹青」のそれぞれと、原作となった中国の作品を比較し、「試論日本文学中"変身"題材類作品的因襲与創造」にまとめ、戸倉が主宰し、学外の専門家も多数参加する中国古典小説勉強会で発表した。この発表において、LI,Pengfeiは、中島敦、太宰治のような近代作家が、変身のモチーフを題材に、近代的な主題を持った小説を執筆することは中国では殆ど例がないと述べ、参会者の注目を集めた。今回の研究を総合すれば、次のように言うことができる。中国では唐代以降人間中心的な思想が次第に強固なものとなり、異類は人間より劣ったものとされ、人間が魚や虎に変身することは罪障と捉えられるようになった。唯一の例外は、清代の『聊斎志異』である。一方日本では、異類を蔑視する観念は発達せず、むしろ「夢応の鯉魚」が、魚への変身を人間では得られない大きな自由の獲得と描いているように、異類への変身、及び人間に変身して現れる異類との交流は、人間が自分自身と向かい合う場としての機能を保ちつつ、近代を迎えたということができる。LI,Pengfeiは2009年11月、2年間の研究期間を終え帰国したが、戸倉はその後もLIと連絡を取り、研究成果のまとめを進めている。